クラシック音楽の調査の一覧(オーケストラ・コンクール・楽器の値段・アマチュアの調査13本)

「世界中で楽器を弾くことは行なわれている。しかし音楽はただウィーンでだけ行なわれる」
――ユダヤ系に生まれ、ナチの時代にドイツを追われた指揮者オットー・クレンペラーが、ウィーン・フィルとの練習を終えて(オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』)この言葉が出た場面は、付録のコラムに ↓
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団について、デッカの録音プロデューサーだったジョン・カルショーは、没後に出た自伝『レコードはまっすぐに』にこう書いています。1957年、ハンガリー生まれのユダヤ系の指揮者ゲオルク・ショルティとの《アラベラ》の録音がうまくいかなかったくだりです。「ウィーン・フィルは、その気になれば獰猛な反ユダヤ主義者となりうる。そしてこのときは、ショルティがその標的なのだった」(同書 p.210)。
同じカルショーが在職中の1967年に出した『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』には、「ユダヤ」という語も「ナチ」という語も一度も出てきません。日本財務戦略センターが邦訳を全頁読み込んで確かめました。1957年の仕事も、この本では《ワルキューレ》第3幕の「試験飛行」として書かれ、《アラベラ》には触れていません。なぜ書き方が変わったのかについて、本人の説明は残っていません。
一方で、同じ1960年代の楽団は、ミュージカル《ウエスト・サイド物語》の作曲者で、ニューヨーク・フィルの音楽監督も務めた米国の指揮者、ユダヤ系のレナード・バーンスタインを熱狂して迎えています。バーンスタインは1966年3月に妻へ宛てた手紙で、楽団は自分を「カラヤンに取って代わった一種のユダヤ人の英雄」と見ている、と書きました。
どちらの資料も本物です。ですから「ウィーン・フィルは反ユダヤ主義だったのか」という二択では、この楽団の20世紀は説明がつきません。この記事では問いを変えて、ウィーン・フィルが何を守ろうとしたのかを、楽団の中の人と外の人が残した記録から追います。反ユダヤ主義を小さく扱うつもりはありません。ただ、それだけでは説明できないものが資料に多く残っています。
<a href="https://ai.jfsc.jp/research/vienna-philharmonic-tradition/">ウィーン・フィルは何を守ったのか ── 証言と公式アーカイブ10,768公演から|株式会社日本財務戦略センター</a>文章での出典表記:株式会社日本財務戦略センター「ウィーン・フィルは何を守ったのか ── 証言と公式アーカイブ10,768公演から」(2026年10月2日) https://ai.jfsc.jp/research/vienna-philharmonic-tradition/使った資料は、書いた人の立場と、書いた時期がそれぞれ違います。
| 資料 | 書いた人の立場 | 書かれた時期 |
|---|---|---|
| オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』 | 1922年入団、1958〜66年の楽団長。組織の中から | 引退後の回想 |
| ヴェルナー・ヒンク『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』 | 1974〜2008年のコンサートマスター。演奏する側から | 引退後の語り下ろし |
| 野村三郎『ウィーン・フィル コンサートマスター、キュッヒルの音楽手帳』 | ライナー・キュッヒル(1971年からコンサートマスター)への聞き取り | 在職中の対談 |
| ルーペルト・シェトレ『舞台裏の神々』 | 国立歌劇場のフリーの奏者が集めた楽員の楽屋話 | 後年 |
| ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』と自伝『レコードはまっすぐに』 | デッカの録音プロデューサー。外から録音で関わった英国人 | 在職中(1967)と没後刊 |
| ウォルター・レッグ、エリーザベト・シュヴァルツコップ『レコードうら・おもて』 | EMIの録音プロデューサー。デッカの商売敵 | 引退後の回想 |
| ポール・ホフマン『ウィーン 栄光・黄昏・亡命』 | ウィーンの街の歴史を書いた本。楽団の外、街の側から | 後年 |
| ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』 | 指揮者。1972年から1990年までバーンスタインの助手を務めた | 後年 |
| ONTOMO MOOK『至高の指揮者たち』 | ベーム、ヴァントらへのインタビューを含む | 生前の談話 |
| ウィーン・フィルの歴史研究の報告 | 楽団が委嘱した歴史家が文書で再構成 | 2010年代以降 |
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コンサートマスターは、第1ヴァイオリンの先頭に座る首席奏者です。指揮者と楽員のあいだに立ち、弓の使い方や弾き方をそろえて、楽団の音をまとめる役目を負います。ウィーン・フィルには同時に何人かいて、交代で座ります。この記事に出てくるヒンクとキュッヒルも、30年以上同じ時期にこの席を分け合っていました。
楽団長だった人は組織の側から、コンサートマスターは音の側から、カルショーは外から、歴史家は後から文書で、それぞれ同じ楽団を見ています。同じ楽団でも、資料によって見えている姿が違います。この記事では、その違いも材料として扱います。
楽屋話の本には、読み方の注意も要ります。『舞台裏の神々』の著者シェトレは序文で、職業音楽家にとって逸話のたのしみは、何よりも「シャーデンフロイデ」、つまり他人の失敗を見て喜ぶ気持ちにある、と書いています。一秒の何分の一か早く出ただけで、指が何ミリかずれただけで、名手と凡手の差が出てしまう。そういう綱渡りの緊張を毎日強いられているのだから、仲間のしくじりを笑って気を晴らすのも許してやってほしい、というのです。口から口へ伝わるうちに、話が誇張されているものもあるかもしれない、とも断っています(同書 序文)。この記事が引く楽屋話は、そういう種類の話として読んでください。
楽団の話に入る前に、楽団が暮らしてきた街の性格を、ポール・ホフマンの『ウィーン 栄光・黄昏・亡命』で見ておきます。ホフマンはこの本の序章に「ウィーン人の性格にはどうして裏表があるのか」という題をつけ、あるオランダ人の言葉を引いています。オーストリア人は二部屋のアパートに暮らしている。一部屋は明るく、居心地のいい客間で、客はそこでもてなされる。もう一部屋は暗く、いつも閉ざされている、という比喩です(p.7〜8)。表向きの愛想と本音を使い分けることを、ウィーンの方言では「シュメー」と呼ぶ、とも書いています。そのうえでホフマンは、1938年にヒトラーを熱狂して迎えた感情と、1955年の国家条約の調印に涙ながらに拍手した感情の、どちらが本物だったのか、それともどちらも本物だったのか、と問いかけます(p.13〜14)。
ウィーンは、多くの民族を抱えた帝国の首都でありながら、ドイツ語を話す地域の東の端にありました。第一次世界大戦の前には、人口の少なくとも5分の1がボヘミア人、モラヴィア人、スロヴェニア人で、料理人もメイドも、音楽家も役所の次官もチェコ人のようだった、とホフマンは書いています(p.23)。混ざり合った街だからこそ、誰が「うち」で誰が「よそ」かの線引きは、日々の暮らしの中にありました。この記事で見る楽団の採用の線引きも、カルショーが書いた、ハンガリー人の指揮者ケルテスは「ウィーンでだけは駄目だった」という話も、この街の空気の中で起きています。
750年以上、街の中心には宮廷がありました。ホフマンによれば、宮廷に仕え、宮廷を眺めてきた人々は、儀式ばり、噂好きで、出世のための策をめぐらし、有力者の引き立てを根気よく求める「廷臣」の気質を身につけました。引き立ての得かたは、有力者の願いを先回りして読み取り、恭順の意を示すことで、この引き立て(プロテクツィオン)の仕組みは、帝国が滅んだあとも第一共和国を支配し、第二共和国ではほとんど制度になった、といいます。肩書への情熱も残り、共和国になってからも宮廷顧問官の称号が与えられ続けました(p.42〜43)。役所の仕事ぶりについては、はっきりしないものはすべて許可されない、という住民のジョークを紹介し、はっきりした決定を避ける曖昧さを「典型的なウィーン人の戦術」と呼んでいます(p.54〜55)。
音楽と劇場は、その宮廷から街へ降りていきました。ホフマンは、1841年にオットー・ニコライが主に宮廷オペラの音楽家でウィーン・フィルハーモニーを創ったことを、ウィーンが「音楽狂いの都」だった証拠として挙げ、国立歌劇場は多くのウィーン人にとって街で最も重要な場所だ、と書いています(p.48〜49)。ただ、音楽家や劇場の人々は、恩恵の配り方を決め、宮廷劇場を管理し、検閲を行う官僚たちの恣意的な権力を、認めざるを得ませんでした(p.51)。楽団が国の劇場の楽員でありながら、私的な協会として「自分たちで決める」ことにこだわった背景には、この街の権力の形があります。
劇場と演奏会の客席を満たしていたのは、多くがユダヤ系の市民でした。ホフマンはシュテファン・ツヴァイクの、ユダヤ系の中産階級こそ劇場や演奏会を満員にし、本を買い、絵を手に入れる「本当の観客」だった、という言葉を引いています(p.60)。そして、ホロコーストで少なくとも6万人のウィーン人が殺され、いまのウィーンはほとんどユダヤ人のいない街になったが、反ユダヤ主義は生き残っている、と書きます(p.64)。1938年に楽団が失ったものは、楽員と教師だけではなく、客席の一部でもありました。
ホフマンは序章を、居心地のよさの話で閉じています。過去100年の最も創造的なウィーン人たち、フロイトやマーラー、シェーンベルクらは、コーヒーハウスの居心地のよさを味わっていなかった。ハプスブルク家の紋章の双頭の鷲のように、真のウィーン人は同時に反対の方向を見つめようとしている、と書いています(p.74〜75)。この記事が引く楽団長や楽員の回想は、多くがこの街の「客間」で語られた言葉です。読むときは、閉ざされたもう一つの部屋があることを、頭の片隅に置いておく必要があります。
この記事を読むうえで、ウィーン・フィルがどういう組織なのかを先に押さえておきます。楽団長だったシュトラッサーの説明に沿って図にすると、次のようになります。

ウィーン・フィルの楽員は、まず国立歌劇場管弦楽団の楽員です。劇場に雇われ、シュトラッサーの時代には国家公務員として国から給料を受け、毎晩のオペラとバレエを弾きました。その楽員の中から会員になった人たちが作っているのが、ウィーン・フィルハーモニーという私的な協会です。シュトラッサーによれば、協会は1908年に新しい規約と名前を定め、1867年の協会法に基づく正式な協会になりました。この「協会」が演奏会を主催し、レコード会社や音楽祭の主催者と契約を結び、演奏旅行を取り決めます。そうした活動は、外国への旅行を除けば、歌劇場の正式な勤務の外の自由な時間に行われます。だから楽員は「二人の主人に仕えている」のだ、とシュトラッサーは書いています。協会の運営は仲間から選ばれた楽団長の責任で、指揮者はそこに何の影響力も持たない、とも書いています(『栄光のウィーン・フィル』p.22)。
規約の上では、協会はもともと音楽のための団体ですらありませんでした。シュトラッサーは、協会は「良い音楽をつくりだすためではなく、定年退職した同僚たちの財政援助をするための存在」で、当局の目からは私的な年金保険の団体だった、と書いています。だからこそ1938年、ナチの当局は、私的な互助の団体は不要だとして協会を解散させ、財産を取り上げようとしました(同 p.159)。
二つの身分は、別々に動きます。コンサートマスターのアルノルト・ロゼーは、あるとき協会から抜けましたが、国立歌劇場の楽員の身分はずっと保っていました(同 p.20)。1997年の報道では、国立歌劇場管弦楽団の149人のうち、ウィーン・フィルの会員は134〜136人でした(ロサンゼルス・タイムズ 1997年2月21日)。録音の世界では、この二重の身分が抜け道にもなりました。デッカが「独占契約」をうたっていても、ウィーン・フィルではなく「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」と名乗りさえすれば、同じ人たちをどのレコード会社も使えた、とカルショーは書いています(『レコードはまっすぐに』)。
この仕組みは、国の側から見ても扱いにくいものでした。1997年、女性を入れない楽団にオーストリア政府が手を焼いたとき、政府は、楽団は私的で自治的な協会なので女性を入れるよう命じることはできない、という立場でした。圧力は、楽員の雇い主である国立歌劇場の総監督を通してかけられています(ロサンゼルス・タイムズ 1997年2月10日)。国の劇場の中にありながら、国が直接は手を出せない。ウィーン・フィルを一つの主体として語りにくいのは、この形のためです。
シュトラッサーは、1938年まで57年間コンサートマスターを務めたアルノルト・ロゼーについて、次のように書いています。典型的なウィーンっ子であるフリッツ・クライスラーの、甘く柔らかい音で弾くやり方を「ウィーン式」と呼ぶなら、ロゼーの奏法は「ほとんどウィーン式とは言いがたかった」。ロゼーは「ほとんど左手をヴィブラートさせなかった」が、その音は甘美で、音程は比類なく完璧だった、と。
楽団の中で最も尊敬されたコンサートマスターの弾き方が、楽団長の目から見て「ウィーン式」ではなかったことになります。ここで言う「ウィーン式」は、一つにまとまった様式ではありませんでした。
録音の研究も、この見方と合います。ロンドン大学のダニエル・リーチ=ウィルキンソンは、ロゼーの録音を聴けば「ヴィブラートなし」は比べての話であって絶対的なものではないとし、ロゼーの世代とクライスラーの違いは、量よりも、フレーズの感情に合わせてヴィブラートを変えるかどうかにあると書いています(The Changing Sound of Music 第5章)。ウィーンのヴァイオリン楽派の祖とされるヨーゼフ・ベームは、ポルタメントの使いすぎにはっきり反対していました(オーストリア音楽事典「ウィーン・ヴァイオリン楽派」)。
管楽器は事情が違います。シュトラッサーによれば、ウィーンのオーボエ奏者はヴィブラートをかけず、クラリネットもかけない、フルートは控えめでした。これは今も「ウィーンの響き」の特徴として挙げられる点です。
フルトヴェングラーが《英雄》の第2楽章の練習で第1ヴァイオリンに「あなた方の弾き方は、私の感受性にとってはセンチメンタルすぎます」と言ったことも、シュトラッサーは書き残しています。楽団の歌い方を、指揮者が抑えにかかった場面です。
1938年の追放は、ある日外からやってきた出来事として語られがちです。けれども、楽団が委嘱した歴史家たちの報告(楽団の公式サイトで公開)を読むと、その前から楽団の中に線が引かれていたことが分かります。
第一次世界大戦に負けた後のオーストリアは、ひどいインフレに見舞われました。1922年に楽団に入ったシュトラッサーは、その年の夏のザルツブルクで、6月に約40万クローネで契約を結んだのに、8月に受け取った謝礼は、下落した価値で150万クローネだった、と書いています。生まれたばかりのザルツブルク音楽祭も続かず、1923年には劇が一つ上演されただけ、1924年には何も開かれませんでした(『栄光のウィーン・フィル』p.51)。楽団の年金も、初めは協会の資本の利子でまかなえていましたが、インフレで協会の資産が消え、現役の全員が掛け金を払う仕組みに切り替えています。
楽団は、とにかく弾いて稼ぎました。歴史家トリュンピによれば、1919/20年のシーズンに31回だった演奏会は、5年後には65回に増えました。1920年代のはじめには依頼をほとんど断らず、楽団を呼べるかどうかは芸術の質よりも主催者の懐次第だった、とトリュンピは書いています。役所や市の団体に演奏を売ったのも、このころが初めてでした(トリュンピ「第一共和国とオーストロファシズム」)。
頼みの綱は、国の外への演奏旅行でした。1908年から1927年まで楽団の定期演奏会を振ったフェリックス・ワインガルトナーの指揮で出かけた1922年の南米楽旅は大成功で、シュトラッサーは、財政上の大きな収益をもたらしたうえに「もっとも怖るべきインフレーションの時代に、大歓迎であった」と書いています。ところが翌1923年、興行主はワインガルトナー抜きで楽団だけを招き、指揮者に敵手のリヒャルト・シュトラウスを指名してきました。楽団代表は断ろうと言いましたが、「経済状勢は以前と同様悪く、費用向う持ちで収益を得る誘惑は強かった」。楽員の一部が受けるべきだと主張し、代表は辞任しています(同 p.42)。
二度目の南米は、不運な旅になりました。期待したほどの収益は上がらず、楽員3人が旅先で亡くなります。クラリネットのベーレンドスはブラジルに着いて間もなく亡くなり、ヴァイオリンのクノールは憂鬱症から自ら命を絶ち、この旅を言い出したコントラバスのマデンスキーは航海中に亡くなって、遺体は海に沈められました。シュトラッサーは、「出かけないほうがよかったのだ」と書いています(同 p.43)。私的な協会として自分たちで稼ぐという形は、こういう時期にも楽団を支え、同時に楽員を危ない旅へ押し出していました。
戦間期の楽団で、ユダヤ系の楽員は中心にいました。長くコンサートマスターを務めたアルノルト・ロゼーと、首席チェロのフリードリヒ・ブクスバウムがその代表です。指揮台にも、ベルリン生まれのユダヤ系の指揮者ブルーノ・ワルターが1919〜37年に147回立ち、1933年以降はドイツを追われた指揮者たちが次々にウィーンに来ました。曲目も、公式アーカイブで調べると、1919〜37年の1,344公演のうちマーラーを演奏した公演が70回(5.2%)、メンデルスゾーンが59回(4.4%)あります。歴史家フリッツ・トリュンピは、併合の前から楽団は夜の演奏会でマーラーやメンデルスゾーンを「散発的に」しか取り上げなかったと書いていますが、演奏会全体で見れば、戦後の1946〜70年(マーラー3.3%、メンデルスゾーン2.1%)より多く演奏していました。
一方で、歴史家ベルナデッテ・マイアーホーファーによれば、楽員の誰がユダヤ系の祖先を持ち、誰の妻がユダヤ系かは1938年より前から知られていて、それが楽団の中の付き合いの線を分けていました。亡命した楽員の孫は、「ユダヤ人はいつもどこか脇に置かれていた。『私たち』と『彼ら』がいて、その間に、自分を反ユダヤ主義者だとは思っていない人たちがいた」と語っています。
同じころ、楽団の中にはナチの組織ができていました。歴史家オリヴァー・ラートコルプによれば、1931〜32年、ホルンのレオポルト・カインツ、オーボエのカール・スヴォボダ、コントラバスのヴィルヘルム・イェルガーらが、国立歌劇場の中にナチの「経営細胞」を作りました。オーストリアで党が禁止された1933年7月以降も、彼らは同僚から金を集め、禁止された宣伝紙を売っていました。1945年5月、オーストリアの当局は楽員24人を、禁止期間中の「非合法」党員に分類しています。1942年には、現役の楽員123人のうち60人、約49%が党員でした。併合の当日の1938年3月12日、楽団の臨時の長に就いたのはイェルガーです。
楽団そのものも、政治と無縁ではありませんでした。トリュンピによれば、1925年のドイツ楽旅では、ミュンヘン市長が合邦を見越した歓迎の演説をしています。1933年7月の総会は、ドルフスが議会を停止した数か月後に、2票を除く全票で理事会の権限を強めました。楽団長に就いたフーゴー・ブルクハウザーは、ドルフスの祖国戦線と近い人物でした。同じ年5月のイタリア楽旅では、ムッソリーニの「ファシスト革命展」を訪れています。トリュンピは、理事会の強さと国を代表する役回りが、1938年のナチによる掌握を「容易にしただけ」だったと結んでいます。
楽団長だったシュトラッサーの回想録(1974年)は、この時期をどう書いているのでしょうか。公式の研究が書いている事柄を、回想録の全文と照らし合わせました。
| 公式の研究が書いていること | シュトラッサーの回想録 |
|---|---|
| 1931〜32年、楽団の中にナチの細胞ができ、イェルガー、カインツらが中心だった | 出てきません。イェルガーは「アカデミー時代の同窓の友」、カインツは「私の友人」として登場します |
| 1933〜38年の「非合法」党員(1945年に24人と分類)、1942年に楽員の約49%が党員 | 出てきません。「党員」という言葉は、戦後の非ナチ化の場面にしか出てきません |
| シュトラッサー自身は、楽団の事務長になった1938年の7月に入党を申請し、1940年に党員になった。1942年の時点で、現役の楽員の約49%が党員だった | 出てきません。事務長になった経緯と、フルトヴェングラーとの交渉は詳しく書いています |
| 1938年10月、シュトラッサーが帝国の建設に「全力で寄与する」機会を求める請願を出した | 出てきません |
| 戦後の事務長ヘルムート・ヴォービッシュは1933年に入党し、1934年のナチの7月蜂起に加わり、SSの隊員だった | 出てきません |
| 併合の前から、ユダヤ系かどうかで楽団の中の付き合いが分かれていた | 出てきません。ユダヤ系の楽員の排除は、ニュルンベルク法とともに外から生じた「別な事柄"ユダヤ人粛清"問題」として書かれています |
| 戦間期の楽団は政治と相互に依存し、1933年に理事会の権限を強めた | 「私たちはいつの時代にも政治に巻き込まれるのを避けてきた」「一度なりとも、ほんのちょっとした政治的圧迫さえも受けなかった」と書いています。ただ同じ頁で、ドルフス以後は祖国戦線に「否応なしに」入ったこと、ブルクハウザーが音楽家連合の会長になったことには触れています |
| ゲリンガーがダッハウの収容所から釈放されたのは、イェルガーらの働きかけによる | 書かれています。イェルガーと同僚が働きかけたとあり、研究と一致します |
| 特別措置の申請で9人が楽団に残れた | 書かれています。9人という数も一致します |
回想録に書かれていることで、研究と食い違うものは多くありません。違いは、何を書かなかったかにあります。シュトラッサー自身についての部分は、とくにそうです。ただ、書かなかったことを「隠した」と言い切れる根拠は、回想録の中にはありません。この記事では、書かれていることと、書かれていないことを分けて示すにとどめます(シュトラッサーの記述は『栄光のウィーン・フィル』pp.144-145, 159, 167-168ほか。研究はトリュンピ「第一共和国とオーストロファシズム」「国家社会主義原理に基づく協会」、ラートコルプ「国立歌劇場の経営細胞から協会指導部へ」、マイアーホーファー「1938年以後の楽員の追放と殺害」)。
1938年3月のドイツによる併合のあと、ユダヤ系の楽員は楽団を追われました。ロゼーは併合の直後に職を解かれ、ロンドンへ逃れます。1902年から1936年まで在籍したヴァイオリンのユリウス・シュトヴェルトカは、1942年にテレージエンシュタットで亡くなりました。チェロのフリードリヒ・ブクスバウムも追われています(ウィーン・フィル公式サイトの歴史資料)。公式の歴史では、1942年の時点で楽員123人のうち60人がナチ党員か入党候補者でした。
追われた現役の楽員と、すでに退職していた元楽員のうち、亡命できなかった7人が命を落としています。楽団の歴史家マイアーホーファーの報告によれば、移送されて殺されたのは、ヴァイオリンのモーリツ・グラッタウアー(テレージエンシュタットで死亡、73歳)、ヴィクトール・ロビチェク(ウッチ)、マックス・シュタルクマン(ミンスク近郊のマリー・トロスチェネツで射殺)、ユリウス・シュトヴェルトカ(テレージエンシュタット)、オーボエのアルミン・ティロラー(テレージエンシュタットからアウシュヴィッツへ)の5人です。ほかに、1919年から1938年まで楽団の事務長を務めたアントン・ヴァイスが、度重なる住まいの追い立ての末、1940年に脳卒中で亡くなりました。ロゼー四重奏団の一員だったパウル・フィッシャーは、年金を止められて困窮し、移送を待つあいだの1942年、ウィーンのユダヤ人病院で亡くなっています。報告は、ヴァイスのように移送の前に亡くなった人は記録が少なく、記憶からも抜け落ちやすい、と書いています(ウィーン・フィル公式サイト「追放と殺害」)。
シュトラッサーの回想録は、ロビチェク、シュタルクマン、シュトヴェルトカ、ティロラーの最期には触れています。ヴァイスは、1930年代に楽団長と並んで指揮者との交渉に出向いた事務長として何度も登場しますが、その死については書かれていません。グラッタウアーとフィッシャーの最期も、回想録には見当たりません。
失われたのは楽員だけではありません。ロゼーとシュトヴェルトカは、音楽院やアカデミーで次の世代を教える教師でもありました。
それでも、弟子は残りました。ヒンクは、自分が師事したフランツ・サモヒルと、最初の師のビーレクは、どちらもシュトヴェルトカの弟子だったと語っています。サモヒルはのちにキュッヒルも教えます。一方、キュッヒルへの聞き取りをまとめた野村三郎の本は、サモヒルを「ロゼー門下」と書いています〔註1〕。どちらの説を採っても、戦後のウィーン・フィルの弦を教えた人の師は、1938年に楽団を追われたユダヤ系の奏者だったことになります。
チェロでも同じことが起きています。1947年、楽団はエディンバラで、10年ぶりにブクスバウムと再会しました。9月26日の78歳の誕生日には、楽団のチェロ奏者が全員で祝い、ニコライ銀メダルを贈っています。楽団の1947年の冊子によれば、彼らは「最年少から最年長まで、全員が彼の弟子」でした。ブクスバウムはその席で「政治から離れていなさい」と語りましたが、本人がウィーンに戻ることはありませんでした。
戻った人もいます。1938年に追われたコンサートマスターのリカルド・オドノポソフは、亡命先の米国から1956年にウィーンへ戻り、翌年からアカデミーで教えました。ただし楽団には戻っていません。その理由は、楽団の歴史研究でも分かっていないとされています。
シュトラッサーは回想録で、戦後も「ヴァイオリンのウィーン式奏法は継承されていった」と書き、教えた楽員としてエルンスト・モラヴェッツとサモヒルの名を挙げています。その2人が誰に習ったかには触れていません。これを「隠した」と言える根拠はありません。言えるのは、系譜の書き方に片寄りがある、ということまでです。
ここで、人と音を分けておく必要があります。1938年に人は切れました。系譜は、追われた教師の弟子を通じて、形を変えて残りました。音そのものが1938年に切れたという証拠は、今のところ見つかっていません。
「伝統」という言葉の使われ方も、この時期の資料に出てきます。1942年の楽団の議事録は、同時代の作曲家を定期演奏会に入れることを「フィルハーモニーの伝統の断絶であり、水準の低下を意味する」としています(楽団の歴史研究、フリッツ・トリュンピ「ナチ期のウィーン・フィルのレパートリー」)。伝統は、何かを残すためだけでなく、何かを入れない理由にも使われました。これを1938年の人事と同じだと言うつもりはありません。ただ、「われわれの伝統とは何か」から「だから、これはわれわれではない」へ進む形は、同じです。
併合の後、楽団がまず心配したのは、協会として生き残れるかどうかでした。ナチの当局は、オーストリアの協会を一つずつ審査し、多くを解散させました。楽団が委嘱した歴史家トリュンピによれば、国内に11万5千あった協会や団体のうち、解散を免れたのは約5千にすぎません。楽団も1938年9月にいったん、協会を清算して国の劇場に統合すると決められかけ、12月12日に「電話一本で」取り消されています。
当局が楽団に示した道は二つでした。協会のまま宣伝省の監督の下に置くか、協会を清算して、楽員を社員とする帝国の会社にするかです。後者は、ゲッベルスが1934年にベルリン・フィルにしたのと同じ形で、ベルリン・フィルは国の予算で養われる「帝国オーケストラ」になっていました。ところがゲッベルスは、ウィーンでは前者を選びます。ベルリン・フィルの経費をめぐって財務相から繰り返し責められていたので、金のかからない方を取ったのだろう、とトリュンピは見ています。
楽団の側は、ベルリンと同じ格を求めていました。第三帝国では、文化活動をするオーケストラは宣伝相の下に置かれ、ランクと給料で等級に分けられていました。シュトラッサーによれば、ベルリン・フィルとベルリン国立歌劇場の管弦楽団は最高の「特別クラス」で、楽団は「もし私たちがそれ以下にクラス分けされたくないなら、この二つのオーケストラと同じ地位を保つように努力しなくてはならなかった」。ただ、ウィーン・フィルとしての楽員は俸給を受けておらず、演奏会の収益で回していたので、「特別クラス」に入るには国立歌劇場の管弦楽団として入るしかありませんでした。交渉は長く待たされ、党に近い指揮者レオポルト・ライヒヴァインが直接ヒトラーに願い出て承諾をとりつけ、ようやく実を結んだ、と書いています(『栄光のウィーン・フィル』pp.152-153)。協会の側でも、1938年10月28日、シュトラッサーは国務次官ミュールマンに宛てて、協会を統制から外すことと、国立歌劇場管弦楽団を帝国オーケストラに格上げすることを請願しました。その書面で楽団は、大ドイツ帝国と音楽都市ウィーンの建設に「全力で」寄与したいと申し出ています。歴史家ラートコルプによれば、帝国オーケストラへの格上げは、宣伝省に当面退けられました。
残った協会の中身も変わりました。1939年の規約の改正で、アーリア人だけが会員になれる原理と、指導者がすべてを決める総統原理が入り、楽団長は宣伝相が任命し、総会には提案の権利しか残りませんでした。国のお金も、ベルリン並みには出ません。1943年のスウェーデン楽旅では、ベルリン・フィルの番なら宣伝省が払うフルトヴェングラーの出演料を、ウィーンは自分の財布から払うよう求められています(トリュンピ「国家社会主義原理に基づく協会」、ラートコルプ「国立歌劇場の経営細胞から協会指導部へ」、いずれも楽団の公式サイトで公開)。
協会という形を守るために、楽団は自分たちで決める仕組みの多くを差し出しました。歌劇場の管弦楽団としては最高の等級を勝ち取りましたが、協会としては、国の楽団並みの扱いを最後まで得られませんでした。生き残ることと、自分たちで決めることは、この7年間、両立しませんでした。
ここまで、楽団長だったシュトラッサーの回想録(1974年)を多く引いてきました。その回想録が、1938年から戦後にかけての楽団とナチスの関わりについて何を書き、何を書かなかったのかを、楽団が2010年代に歴史家に調べさせた報告と並べておきます(戦間期の分は、前の章の表にまとめました)。シュトラッサー個人を責めるためではなく、楽団の中から1974年に書かれた歴史が、どこまでを語っていたのかを見るためです。
| 回想録に書かれていること | 回想録に書かれず、公式の研究で分かっていること |
|---|---|
| 1938年4月、ベルリンでの演奏会の貴賓席にヒトラーとゲッベルスがいたこと。楽団は宣伝の役目を担ったから兵役を免れたこと(p.154) | 1940年、楽団が帝国宣伝局の文化担当官を自ら役員会に迎えたこと(トリュンピ) |
| 新しい規約では民主主義のにおいのするものを避けねばならず、選挙は「問題外」になったこと。楽団長は楽団が提案し、当局が任命する形になったが、協会として残り、財産も保てたこと(p.160) | 規約に、アーリア人だけが会員になれる原理と、指導者がすべてを決める総統原理が入ったこと(トリュンピ) |
| ユダヤ系などの楽員21人のうち、9人が特別措置で残り、11人が年金退職させられたこと。収容所で亡くなった同僚の名前(p.151, 156ほか) | 追放された楽員と退職者のうち、5人が移送されて殺され、2人がウィーンで亡くなったこと(マイアーホーファー) |
| ベルリンの国の楽団と同じ「特別クラス」を、ヒトラーへの直訴を経て得たこと(p.152-153) | 1942年の創立百年祭で、大管区指導者シーラッハとザイス=インクヴァルトに名誉指輪を、シーラッハに初のニコライ・メダルを贈ったこと。内部の計画と決算には「総統に」と刻んだ金のニコライ・メダルも載っていること(実際に贈ったかは不明)。記念の統計には、ユダヤ系の楽員を別刷りの黄色い紙に並べたこと(ラートコルプ) |
| 1945年3月、ザルツブルクでの「忠誠コンサート」と、SSの兵舎での演奏(p.219)。シーラッハの館で、ヘスのためにシューベルトを弾いたこと(p.201) | 1939年の大晦日の演奏会(のちのニューイヤー・コンサート)の純益が、全額ナチの募金運動に寄付されたこと(楽団公式)。1942年、シュトラウスの《カプリッチョ》の六重奏をシーラッハの私邸で初演したこと(カーグル/ペステル) |
| 戦後の非ナチ化で13人が年金退職させられたこと(p.227) | 連合国の抵抗を押して、楽団がほぼまとめて非ナチ化を済ませたこと。元SSのヴォービッシュを1953年に事務長に選んだこと。1966年、刑期を終えたシーラッハに、楽団の「秘密の使者」が名誉指輪の複製を届けたとされ、その使者はヴォービッシュだったという証言があること(ラートコルプ) |
ナチ期の高官に贈った顕彰は、2013年10月23日の楽団の総会で、全会一致で取り消されました(ラートコルプ「名誉授与」)。
回想録に書かれていることの多くは、公式の研究やアーカイブと合っています。宣伝の役目で兵役を免れたことや、SSの兵舎で弾いたことまで、自分から書いています。書かれていないのは、楽団が自分たちで選んだり、引き受けたりしたことの方です。
1974年の時点で、それを書くのは難しかったはずです。当事者の多くはまだ楽団にいたり、存命だったりしました。カーグルとペステルは、戦後のオーストリアには元ナチへの恩赦の空気が広くあり、楽団の中でもイェルガーを「楽団の救い主」とする語り方が定着していて、それが1938〜45年の楽団の役割をめぐる議論を避ける役目を果たした、と書いています。楽団が文書を歴史家に開いて調べさせたのは、それから40年近く後のことでした。生き残るために楽団がしたことは、生き残った後、長いあいだ楽団の中で語られませんでした。
1945年、非ナチ化の手続きで、シュトラッサーによれば13人が年金退職させられました。楽団の公式サイトは、4人が即時解雇、6人が年金退職、うち2人が後に復帰した、としています〔註2〕。ナチ党員でSSの隊員でもあったトランペット奏者ヘルムート・ヴォービッシュは、1951年に楽団へ戻り、1953年には楽団の事務長に選ばれました。ヴォービッシュは1940年からSSの保安情報部(SD)にも属し、ほかの音楽家についての報告を書いていて、その一部が残っています(ウィーン・フィルの歴史研究の報告)。
亡命した楽員との関係も、すんなりとは修復されていません。1950年代半ば、楽団長ヘルマン・オーバーマイヤーは、年金を求めたかつての同僚ザランダーに対し、親族がガス殺されたことを別にすれば、爆撃されなかったのだから「なかなか良い時を過ごした」と書き送り、支払いを拒みました。1956年、楽団初の米国公演を前に、在米の亡命楽員が楽団とナチ体制の関わりを米紙に明かすと迫り、楽団は支払いに応じています(フェビアン・ペステル「Austrian World Practices」2025年)。
ナチの時代から引き継いだものもあります。戦後の楽団は、負の遺産に見えかねないものも、手放さずに看板へ育てました。ニューイヤー・コンサートがその例です。
始まりは1939年の大晦日でした。1933年に定期演奏会を降りたクラウスを、楽団は定期の枠の外の、ラジオ放送のための特別な演奏会に招き、クラウスは大晦日のためにヨハン・シュトラウスの曲目を選びました。シュトラッサーは、「これこそ今もなおつづく、私たちの『ニューイヤー・コンサート』の誕生である」と書いています(『栄光のウィーン・フィル』)。併合の翌年、ナチの体制の下でのことです。楽団の公式サイトによれば、1939年12月31日のこの演奏会の純益は、全額がナチの募金運動に寄付されました(ウィーン・フィル公式「伝統と歴史」)。楽団が委嘱した歴史家ラートコルプの報告では、クラウスが企画の発案者で、演奏会は帝国放送協会との共催でした。
戦後、楽団はこの演奏会をやめませんでした。ラートコルプによれば、1946年の元日、ナチの時代に演奏を禁じられていたヨーゼフ・クリップスの指揮で、初めて「ニューイヤー・コンサート」と名付けられています。クラウスは戦後しばらく指揮を禁じられ、公式アーカイブでは1946年と47年の元日をクリップスが、1948年から亡くなる1954年までをクラウスが振っています。1955年からは、楽団のコンサートマスターだったヴィリー・ボスコフスキーが受け継ぎました。客の入りは、シュトラッサーの時代にすでに伸びていました。1952年から53年への大晦日には客が殺到し、前日にもう一回の公演を開くようになった、と書いています。楽団の公式サイトによれば、この演奏会はいまや90を超える国で放送されています。
ナチの体制の下で、ナチの募金のために始まった演奏会が、戦後は平和な新年の象徴として世界に流れるようになりました。始まりの事情を隠したわけではなく、楽団の公式サイト自身がそれを書いています。そのうえで、ワルツという楽団にしかない商品を、楽団は手放しませんでした。
一方で、楽団は学校とつながって人を育てました。シュトラッサーは、アカデミーで楽員が教え、若い人を一定の方向に育てることで、楽団は「一大家族」のようになり、それが音の統一の源になったと書いています。入団についても、国立歌劇場の楽員は「ほとんど例外なく」オーストリア人で、外国籍の人が採られるのは「同国人の腕を凌駕した場合」だとしています。
入団試験は、第二次世界大戦の後、志願者がカーテンの後ろで弾く形になりました。客観的に判断するための仕組みです。シュトラッサーは、楽団の代表になってからこの制度に反対し続けたと書き、その理由を「音楽家といえども芸術家に属するのであり、その全人格を通してその人を判断するには単に耳で聞くだけでは足りず、目で見なくてはならない」としています。そして、自分が引退した後の出来事として、次の話を書き残しました。
ある時、一人の志願者がトップの成績を得た。しかしカーテンが上がってみると何と、一人の日本人が当惑顔の審査員たちの前に立っていたものである。しかもその人は採用にならなかった。というのも彼の東洋的な顔立ちが新年のコンサートや、ピチカート・ポルカにふさわしくなかったというのである。
(『栄光のウィーン・フィル』p.18)。訳者のあとがきには、この志願者が、ウィーン・フィルのヴィオラ奏者カール・シュティールホーフ教授の弟子の小野崎氏だったと書かれています。
カーテンの扱いは、その後も議論になりました。米国の作曲家ウィリアム・オズボーンは1999年の文章で、楽団は最終審査で志願者の姿が見えるように手順を改め、応募に写真の添付を求めるようになったと書いています(オズボーン「ウィーン・フィルの人種観の特徴」1999年)。2004年の論評も、3次の最終審査ではカーテンを外していると書いています(ArtsJournal, 2004年2月)。アジア人で初めて国立歌劇場管弦楽団の入団試験に合格したのは、2003年6月のテューバ奏者、杉山康人でした。杉山は2005年まで在籍し、2006年1月からはクリーヴランド管弦楽団の首席テューバを務めています(クリーヴランド管弦楽団の紹介)。記録に残る日本人の志願者は、これで二人になります。シュトラッサーの引退後にカーテン越しの試験で1位になりながら、顔立ちを理由に採られなかった小野崎氏と、それから30年あまり後に合格し、2年あまりで米国の楽団へ移った杉山です。杉山が移った理由は、ここで使った資料からは分かりません。先の2004年の論評は、楽団が初めて採った有色の人を「あまり目立たない日本人のテューバ奏者」と皮肉っています。シュトラッサーが引き合いに出した《ピツィカート・ポルカ》は弦楽器だけで弾く曲で、テューバの出番はありません。オズボーンは2015年にも、シュトラッサーの文章から45年たっても、完全にアジア系でアジア系の姓を持つ団員は一人もいない、と書いています(Slipped Disc, 2015年12月)。一方で、日本人の母を持つ団員はいます。ザルツブルク生まれのヘーデンボルク兄弟で、長男のヴィルフリート・和樹(ヴァイオリン)はウィーン市立音楽大学でヒンクに学び、2001年に国立歌劇場管弦楽団、2004年に正式にウィーン・フィルの団員になりました。次男のベルンハルト・直樹(チェロ)は2011年から楽団で弾いています(サントリーホールのインタビュー, 2021年)。オーストリアで生まれ育ち、ウィーン・フィルの楽員に習った人たちです。2025年には、日本の名を持つニューヨーク生まれのルーカス・タケシ・シュトラトマン(第2ヴァイオリン)が、2022年の国立歌劇場管弦楽団への入団を経て団員になっています(ウィーン・フィル公式の団員紹介)。
女性は、さらに長く楽団の外に置かれました。楽団が女性を初めて団員に迎えたのは1997年で、20年以上にわたって第2ハープを弾いていたアンナ・レルケシュでした(Polyphonic.org, 2010年3月29日)。加入を決めたのは、米国楽旅に発つ前日で、米国での抗議と国内の政治の圧力が重なるなかでのことでした(その経緯は「誰がウィーン・フィルを養っていたのか」の章に書きます)。その10年前の1987年、ロサンゼルス・タイムズの批評家マーティン・バーンハイマーは、このウィーンのエリートの男の集まりは、いつになったら女性を団員に入れるのか、と書いています(ペステル論文による)。2006年11月の時点でも、団員名簿に載る女性は、ウィーン・フィルが1人、国立歌劇場管弦楽団が5人でした(オーストリア国民議会への質問書 213/J XXIII. GP、2006年12月)。その1人は、2004年12月に団員になったハープのシャルロッテ・バルツァライトです。レルケシュは2001年に退くまで、ただ一人の女性団員でした。その後は、2007年にヴィオラのウルズラ・ルッペ(旧姓プライヒンガー)、2008年に第1ヴァイオリンのイザベル・バロ、2011年にコンサートマスターのアルベナ・ダナイロヴァと第1ヴァイオリンのオレシャ・クリリャク、2012年にチェロのウルズラ・ヴェクス、2014年にハープのアンネリーン・レナールツ、2015年にフルートのカリン・ボネッリ、2018年にファゴットのソフィー・デルヴォー、2022年にクラリネットのアンドレア・ゲッチュと続きます(オーストリア歴史館「ウィーン・フィルの女性たち」)。2024年3月の時点で、団員145人のうち女性は24人で、ヴァイオリン14、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス1、ハープ2、フルート1、クラリネット1、ファゴット1でした(AP通信の配信記事、2024年3月6日)。
誰が楽員になれたのかを、師匠と学校からたどると、範囲はおのずと決まってきます。楽員の多くはウィーンの音楽院やアカデミーで楽員に習っており(ヒンクもキュッヒルも師はサモヒル)、そこへ通える範囲で育った人が楽団に入りました。楽員になれたのは、実質的には旧ハプスブルク圏の、それもウィーンの学校で学んだ男性でした。ただし、旧ハプスブルク圏の出身なら誰でも仲間と見なされたわけではありません。カルショーは自伝で、ハンガリー人の指揮者イシュトヴァン・ケルテスが、ほかでは期待どおりの指揮者になったのに「ウィーンでだけは駄目だった。理由は、彼がハンガリー人だからである。ウィーン人はチェコ人に対しても同様の態度をとった」と書いています。そのうえで、ハンガリーもチェコスロヴァキアも第一次世界大戦まではハプスブルク帝国の一部で、ウィーン人自身が混血であり「純血種」は数少ないのに、どうにも不思議な話だ、と付け加えています(『レコードはまっすぐに』)。
チェコ人の作曲家は、もっと早くからこの線に当たっていました。ドヴォルザークの交響曲第6番は、ウィーン・フィルの常任だったハンス・リヒターの求めで書かれ、リヒターに献呈された曲です。1880年、ドヴォルザークがピアノで弾いて聴かせると、リヒターは楽章ごとに作曲者に口づけするほど喜び、12月26日にウィーンで初演すると決まりました。ところが初演は延期を重ねて流れます。ドヴォルザークの公式の作品解説は、演奏会の曲目を決めていた楽員たちが、比較的新しいチェコの作曲家の曲を2シーズン続けて取り上げるのを嫌ったため、としています(antonin-dvorak.cz)。初演は翌年プラハで行われました。楽団の公式アーカイブで、ウィーン・フィルがこの曲を演奏会で初めて取り上げたのは2022年、作曲から142年後です〔註5〕。リヒター自身は、それ以外のドヴォルザークの曲を、1879年のスラヴ狂詩曲から何度も振っています。
戦後には、チェコ生まれの指揮者ラファエル・クーベリックがいます。公式アーカイブでは82回振っていて、1955年に26回、1956年に21回と集中した後、1957年からは年に1〜4回まで減ります。フルトヴェングラーの死後、ウィーンの批評家たちはクーベリックを後継者に推しましたが、「このことは実現するに至らなかった」とシュトラッサーは書いています。二人の書き手は、クーベリックの同じ優しさを、表と裏から書いています。楽団長のシュトラッサーは、それを美点として書きます。心底善意に満ちた人で、リハーサルでは「親しい友よ」と話しかけ、権威を笠に着て押しつけることは一度もなかったと褒めたうえで、「私はよく思ったものだ。少し厳しくしてくれたほうが、私たちみんなに対してもっと効果があったのではないかと」と書きます。そして、かつての密接な結びつきがなぜ疎遠になったのか、「理由が実際には分かろうとしてもよく分からない」と続けています(『栄光のウィーン・フィル』p.260)。録音の側のカルショーは、同じところを物足りなさとして書きます。1956年にウィーンで初めて録音したとき、クーベリックは楽団に「適切なにらみをきかせること」ができず、音が「泳いで」いた、と書き、生活でも音楽でも非常に紳士的だが、音楽に精力を与えて躍動させる気質は「まったく欠けていた」、それを洗練と見る人もいたが、ほかの人には「退屈としか感じられなかった」と評しています(『レコードはまっすぐに』)。クーベリックが長く呼ばれなかった理由を、チェコ人だったからと書いた資料は、ここで使ったものの中にはありません。二人が挙げているのは、むしろ人柄と指揮ぶりです。楽団の中の人は押しつけない優しさを好ましく思いながら「少し厳しく」とも願い、外の人ははっきり「もっと握れ」と見ていました。自分たちで決めたがる楽団が、指揮台の上には、強く握ってくれる人を求めてもいたことがうかがえます。ただ、同じ帝国の中にいたはずのハンガリー人やチェコ人が、ウィーンでは「仲間」の外に置かれやすかったことは、カルショーの一節と、ドヴォルザークの第6番の経緯が示しています。
楽員自身も、ウィーンの弾き方は身体や血に宿るものだと語ってきました。事務長ヴォービッシュは1964年に、若い楽員でも「そういうものが彼らの血の中にある」と言いました。キュッヒルは、ウィンナ・ワルツなどシュトラウス周辺の音楽は「オーストリア人にとって血の中に流れているもの」で、楽団は「誰にも指示されないで黙っていても独特のワルツを奏でることができます」と話しています(『キュッヒルの音楽手帳』p.108)。ヒンクは「ウィーン風」の要素を、ダンスのリズムが身体に入っているかどうかだと語ります。
1996年2月13日に西ドイツ放送が流した番組では、楽員の一人が「最初から私たちは、ウィーン特有の資質、ここでの音楽の作り方について話してきた」と語り〔註4〕、その音楽は技術だけでなく魂と関わり、魂は文化的な根から切り離せない、と続けました。首席フルート奏者のディーター・フルーリーは、女性が入れば、楽団が今持っている「感情の一体性」を賭けることになる、と述べています。同じ番組で社会学者ローラント・ギルトラーは、楽団は日本人なども決して採らないだろう、採ればウィーン文化の高貴な性格が疑われることになるからだ、と解説しました(番組の文字起こしと英訳)。1997年2月27日に楽団が女性の入団を認めた後、長く楽団長を務めたチェロ奏者ヴェルナー・レーゼルは職を退きました。上の質問書によれば、レーゼルは学校のクラスの訪問を受けた際、「ウィーン・フィルは、白人の男が書いた音楽を白人の男のために演奏する、白人の男のオーケストラだ」と話したと、その教師が1996年12月11日にオーストリアの公共ラジオ(Ö1)で伝えています。
シュトラッサーが書き残した日本人の志願者の件は、こうした考えが、そのまま採用の判断になった例です。
音の同質性の高さは、この顔ぶれの同質性と切り離して考えることができません。
指揮台の顔ぶれも、戦争をはさんでつながっています。楽団の公式のコンサート・アーカイブを日本財務戦略センターが集計すると、1938〜45年に楽団を最も多く指揮したのは、クレメンス・クラウス(109回)、フルトヴェングラー(108回)、カール・ベーム(99回)、ワーグナーの名手ハンス・クナッパーツブッシュ(95回)の4人でした。1946〜70年の上位5人には、この4人が全員入っています(ベーム280回、フルトヴェングラー160回、クラウス97回、クナッパーツブッシュ80回。もう1人はカラヤンの199回)。戦前の首席格だったブルーノ・ワルターは、1919〜37年の147回に対し、戦後は29回でした。ナチ期の過去を持つ指揮者が戦後も指揮台に立ち続けたのは、ウィーン・フィルだけではありません。1967年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がカラヤンを《指環》に招くと発表したとき、楽団の中には、カラヤンが1933年にナチ党に入っていたことを理由に抗議しようという動きがありました。マウチェリの師は、いったんカラヤンが練習を始めれば、みな彼がスコアの隅々まで知る偉大な音楽家だとすぐ気づくさ、と言い、実際に抗議は起きなかったそうです(マウチェリ『指揮者は何を考えているか』p.149)。
外から来た人は、合わせるのに苦労しました。ヒンクによれば、生え抜きでないコンサートマスターとして入ったゲルハルト・ヘッツェルは、最初は「ウィーン・フィル独自の演奏スタイルに合わせるのに苦労」しました。1970年の試験では、サモヒル門下のキュッヒルが選ばれています。
ヒンクは、古楽の演奏法に影響された学生がノン・ヴィブラートを真似することを批判する中で、こう語っています。「第二次世界大戦前後の一時期には、どのような曲であってもやたらとヴィブラートをかけて演奏するスタイルが流行りました」。チャイコフスキーなら当然でも、それをモーツァルトやハイドンにまで持ち込んだために「やりすぎ」になった。古楽のノン・ヴィブラートは、その反動だった、と(『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』pp.236-237)。
ロゼーの世代はヴィブラートをほとんどかけず、戦争の前後には曲を問わずかけるようになり、古楽の運動はまたかけない方へ振れました。どの時期にも、その時の弾き方が「正しい」とされていました。
世界の録音を測った研究も、この動きと重なります。リーチ=ウィルキンソンによれば、ヴァイオリンのヴィブラートの幅が最も大きくなったのは1940年代後半から50年代前半で、ちょうどポルタメントが常用されなくなった時期でした(同書 第7章)。また、ポルタメントは消えたのではなく、短くなって聞こえにくくなったのだとも書いています。長いポルタメントは、ごく最近まで「恥ずかしいもの」扱いだった、とも言います(同書 第5章)。戦前に「ウィーン式」と呼ばれたクライスラーの演奏を形づくっていたもののうち、絶えずかけるヴィブラートは戦後の当たり前になり、甘く長くずり上げるポルタメントの方が、古くさく聞こえるようになったということです。それでも、ウィーン・フィルは戦後もポルタメントを手放してはいませんでした。1964年、カルショーは《神々のたそがれ》の録音で、ウィーン・フィルのヴァイオリンの「かすかではあるが、一糸乱れぬルバートとポルタメント」を聴いています。ただ、それをわざわざ「かすか」と書いているところを見ると、この頃にはもう、ずり上げは短く控えめなものへ少しずつ変わっていたのだと読めます。
ただし、戦争を境に急に変わったわけではありません。デイヴィッド・ハーウィッツは、第二次世界大戦を境に弦のヴィブラートが急変したと言える根拠はなく、量は全体として連続していた、としています(Music & Letters 93巻1号, 2012年の要旨による)。指揮者のロジャー・ノリントンが唱えた「ウィーン・フィルにヴィブラートが入ったのは1940年」という説を、否定する立場です。
変わったのは弦の弾き方だけではありません。指揮のテンポも、時代とともに動いています。『舞台裏の神々』によれば、R.シュトラウスの作品の好まれ方は、この半世紀で大きく様変わりしました。シュトラウス自身が1940年代にウィーンで振った録音は、今日の演奏に比べて驚くほど速い。1993年、カルロス・クライバーはウィーン・フィルと《英雄の生涯》を練習しながら、父エーリヒが使っていた楽譜には所要時間が38分と書いてあるが、今日ではふつう45分はかかる、と楽員に話し、本番では父のテンポのまま演奏しました(同書 p.11–13)。同じ曲でも、半世紀で7分ほど遅くなっていたことになります。
解釈の好みも動きます。同じ本は、ベームが体現したようなモーツァルトの様式は、今日ではそのままではとても演奏に堪えず、もしそんな演奏をする人が現れたら、批評家はすぐさま「ロマンティックにすぎる」とくさすだろう、と書いています。古楽から出発した指揮者ロジャー・ノリントンは、ベームの振ったモーツァルトの交響曲第40番の録音を聴いて、「すばらしいひびきだ! だがこれを聴きすぎるのはまずい。自分の演奏もそうなりかねないからだ。でもこれは完全に間違った演奏だ!」と言ったそうです。本はこれを、そうした批評がいかに相対的なものかを示す例として挙げています(同書 p.42–43)。本によれば、「ほんらいの正しい」響きという考えが広まる前の1960年代は、事情がまったく違っていました。
ウィーンの側も、響きが変わることを認めています。ウィーン音楽演劇大学のグレゴール・ヴィドホルムは、弦の響きの特徴はもっぱら「人」の要素によるものだとしたうえで、20世紀を通じたウィーン・フィルの弦のヴィブラートの使い方の変化を例に挙げ、「ウィーンの響きは、まったく変わっていくものだ」と書いています(オーストリア音楽事典「ウィーンの響き」)。楽団自身も、かつての公式サイトで「完全に統一されたウィーン・ヴァイオリン楽派というものは語れない」とし、弦の各パートは、新しく入った奏者を楽団の流儀に組み込んでいく「工房」のようなものだと説明していました(2012年の保存版)。
その「工房」で、様式を決めるのはコンサートマスターです。ヒンクによれば、指揮者が楽団の慣れないフレーズの作り方やヴィブラートのかけ方を求めると、受け入れる楽員と受け入れない楽員が出てくる。そのときコンサートマスターがどちらかに決め、全員に徹底させる(同書 p.102)。音もまた、楽団の中で決められていました。
キュッヒルは、野村三郎との対談でこう話しています。
40年前と音はまったく変わりました。その頃の伝統はもう失われているのです。
聞き手が「ベルリン・フィルはもっと変わりましたね。もうまったくフルトヴェングラー時代の面影はありません」と応じると、キュッヒルは「それはその通りです。時代と共に音は変わりますから」と答えています(『キュッヒルの音楽手帳』p.125)。別の回では、聞き手が「ベルリン・フィルは大きく変わったけれども、ウィーン・フィルはそんなに変わっていない」と言ったのに対し、キュッヒルは「ウィーン・フィルの変化もベルリンと同じだ」と強く反対しています(同書 p.38)。
「40年前」は、キュッヒルが楽団に入った1970年前後を指していると読めます〔註3〕。キュッヒルにとっての「伝統」は、自分が入ったときの音でした。そして同じ人が、音は時代とともに変わるとも言っています。
これを、昔をなつかしむ話として片づけることもできます。けれども、ここには「伝統」という言葉の二つの使い方が並んでいます。自分が若いころの音を「失われた伝統」と呼ぶ使い方と、音は変わるものだと認める使い方です。
さかのぼると、1922年のシュトラッサーは、ヴィブラートをかけすぎだとシャルクに止められました。そのシュトラッサーが、後に「ウィーン式奏法は継承された」と書きます。さらに後のキュッヒルは、自分の入ったころの伝統は失われたと言います。キュッヒルが入ったのは、ヒンクの言う「やたらとヴィブラートをかける」時期と、録音研究の言うヴィブラートの山の、少し後でした。どの世代も、自分が若いころに聴いた音を「ウィーン」と呼んでいたように見えます。
ウィーン・フィルには、1933年以来、首席指揮者がいません。指揮者は楽団が選んで呼びます。誰をどれだけ呼んだかは、楽団の公式のコンサート・アーカイブで調べることができます。この記事の末尾のAPPENDIXに、その集計を載せました。
ウィーン・フィルは、創立のころから指揮者を自分たちで選んできました。楽団長シュトラッサーによれば、初めは楽員から選ばれた委員会が楽団を管理し、指揮者は選挙で決め、その指揮者が楽団の代表も兼ねていました。25歳のオットー・デッソフや32歳のハンス・リヒターを選んだのは、若い才能に賭ける「男気と才覚」だった、と書いています。付録の表A2の上の方に並ぶ古い名前は、この選挙の結果です。デッソフは1860〜77年に133回、リヒターは1875〜98年に223回振りました。
選んだ相手を、楽団はいつも信じたわけではありません。1897年に宮廷歌劇場の総監督になったマーラーを、楽団は翌年リヒターの後任に選びました。けれども「フィルハーモニーの人たちは条件つきの気持で、自分たちの選んだ人に対した」。わずか1年後には、傷ついてウィーンを去ったリヒターを呼び戻そうとしています。リヒターは承知せず、マーラーの時代は3年で終わりました。公式アーカイブでも、マーラーが振った定期演奏会は1898〜1901年の3シーズンに集中しています(シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』)。なお、楽員の大量の入れ替えや燕尾服の強制といった有名な対立の話は、主に宮廷歌劇場の勤務での出来事で、演奏会の楽団としての話とは分けて読む必要があります。
マーラー以後は、楽団の代表を楽員から選び、指揮者とは分けるようになりました。後任のヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世の時代も3年で終わり、楽団は1903年、一人の常任をやめて客演の指揮者を招く仕組みに切り替えます。シュトラッサーは、「世界的名声のあるオーケストラには、同様のランクの指揮者だけがふさわしいのだと」先輩たちが身にしみて悟ったからだ、と書いています。ただ、この客演の仕組みは長く続きませんでした。1908年、楽団は一度振っただけのフェリックス・ワインガルトナーを正式の指揮者に選び、シュトラッサーの言う「常任指揮者」の仕組みに戻ります。ワインガルトナーは1927年まで務め、その後はフルトヴェングラー、続いてクレメンス・クラウスが常任になりました。最後の常任だったクラウスが、もめごとの末に1933年に退くと、楽団は再び客演の指揮者を招く仕組みに切り替えます。シュトラッサーは、これを1903年と同じ切り替えだったと書いています(同書 p.40, p.104)。それ以来、ウィーン・フィルに常任の指揮者はいません。
表 本文に出てくる指揮者が、ウィーン・フィルの演奏会を指揮した回数(楽団の公式コンサート・アーカイブから日本財務戦略センターが集計。1842〜2026年9月の10,768公演)
| 指揮者 | 計 | 1919〜37年 | 1938〜45年 | 1946〜70年 | 1971〜2000年 |
|---|---|---|---|---|---|
| カール・ベーム | 510 | 2 | 99 | 280 | 129 |
| ヴィルヘルム・フルトヴェングラー | 365 | 97 | 108 | 160 | 0 |
| ロリン・マゼール | 363 | 0 | 0 | 40 | 247 |
| ヘルベルト・フォン・カラヤン | 290 | 1 | 0 | 199 | 90 |
| レナード・バーンスタイン | 193 | 0 | 0 | 18 | 175 |
| ブルーノ・ワルター | 187 | 147 | 5 | 29 | 0 |
| ゲオルク・ショルティ | 97 | 0 | 0 | 31 | 66 |
| ヨーゼフ・クリップス | 95 | 5 | 22 | 65 | 3 |
| ジョージ・セル | 30 | 4 | 0 | 26 | 0 |
マゼールは2014年まで、ショルティは1996年まで楽団を振り続けました。カルショーが「標的」と書いた1957年の後も、ショルティは呼ばれ続けています。バーンスタインは1966年の初登場から1990年までに193回で、楽団が招いた指揮者の中で13番目に多い回数です。
楽員の証言を並べると、指揮者を受け入れるかどうかの軸として、出自とは別に「自分たちのやり方で弾かせるかどうか」が見えてきます。民族や宗教や政治が効かなかった、と言いたいのではありません。証言の上では、それとは別の軸がはっきり出てくる、ということです。
同じ指揮者でも、誰が書くかで描かれ方はずいぶん変わります。ヒンクが「私の出会った名指揮者」として思い出を語った人たちを、ほかの本と読み比べると、それがよく分かります。
いちばん評価が割れるのはベームです。楽団長シュトラッサーは、押しつけがましくない外見の奥に温かい心があった、と書きます。ところが楽員の楽屋話を集めた『舞台裏の神々』では、楽員に好かれず、いつもだれか一人を生け贄に選ぶ指揮者です。ヒンクも、新入りにとっては恐ろしい存在だったと言い、キュッヒルははっきり「若い団員をいじめる癖がありました」と語っています。それでもヒンクは、ベームのR.シュトラウスは秀逸だったと認めていますし、EMIのレッグはブルックナーの演奏を「明晰さの典型」と褒めました。デッカのカルショーだけは、当時のベームは停滞期にあって、会社が望む魅力に欠けていた、と冷ややかです。
カラヤンは、内側の人たちがおおむね高く買っています。シュトラッサーは楽団長のあいだずっとカラヤンの側に立っていたと書き、ヒンクはいつも動じないカリスマとして、キュッヒルは権威で伝統を守った時代として振り返ります。親友だったレッグは、稽古中のカラヤンは決して怒らないと書いています。楽屋話だけは少し斜めから見ていて、磨き上げられた偶像になった、スタジオ録音より実演の方がいい、と書きます。
その陰にいるのがフルトヴェングラーです。シュトラッサーにとってはナチ時代に楽団を守った恩人で、キュッヒルは、彼が現れると楽団の音が変わったという伝説を引いています。一方で楽屋話もレッグも、年下のカラヤンへの嫉妬を隠しません。ヒンクとカルショーが書き留めているのは、打点の分からない棒と、録音の時の極端な神経質さです。
戦後の苦しい時期を共にした指揮者には、シュトラッサーの筆が特に温かくなります。クリップスは楽団を救った恩人で、クラウスとは「極めて密接な芸術上の関係」を結んでいた、と書きます。ヒンクもクリップスのモーツァルトと踊りの感覚を高く評価しています。ただ、カルショーにとってクリップスは日和見主義者で、クラウスについてはヒンクが、現代ものを並べて客を減らした人、という別の顔も伝えています。
セルは、ほとんどの書き手から怖がられた人です。楽屋話は、紳士的だが素っ気ない冷たさが演奏にも出ると書き、レッグは最も嫌われた指揮者と呼びました。それでもシュトラッサーは、初めの反感がやがて尊敬に変わったと書き、カルショーは、楽員が応えたのは怖かったからではなく、その音楽の力にだったと見ています。ヒンクが覚えているのは、一人で練習しているコンサートマスターに、いたずらっぽく笑いかける姿でした。
若い世代では、バーンスタインがほぼ誰からも好かれています。楽屋話は情熱的な稽古と楽員との親しさを、ヒンクはマーラーを粘り強く楽団に根づかせたことを書き、カルショーはマーラーを振るときの彼を「比較を絶する存在」と呼びました。シュトラッサーだけが、狂熱的に働く才人だと認めつつ、どこまでがショーでどこからが本心なのか見極められなかった、と少し距離を置いています。
ロリン・マゼールとクラウディオ・アバドとズービン・メータは、評価が書き手の立場で分かれる例です。マゼールについて、ヒンクは驚異的な記憶力で新風をもたらした才人と褒め、レッグは完璧な技術に感心して自社に誘いましたが、カルショーは楽団に好まれなかったと書いています。アバドは、楽屋話では音程に小うるさい人ですが、ヒンクは言葉は口下手でも棒は非常に優れていたと言い、カルショーは若手で最も偉大な資質の持ち主と見ていました。メータは、楽屋話では四か国語を操る語学の天才、カルショーには18歳で会って一流になると確信した若者でしたが、レッグは、集中を欠いて聴衆受けに走ると手厳しく書いています。
カルロス・クライバーには、悪口がほとんど見当たりません。楽屋話はめったに振らない天才として、ヒンクは本番でとんでもない力を出す「幻の指揮者」として、キュッヒルは休んだ団員にワインを贈るような気遣いの人として書いています。
「自分たちで決める」楽団も、外のお金と無縁ではありません。公式アーカイブで調べると、演奏会のうちオーストリアの外で開いたものは、1930〜40年代には1割ほどでしたが、1950年代に3割を超え、1990年代以降はほぼ3割で安定しています。最初の大きな山は1920年代の南米で、1922年のフェリックス・ワインガルトナーとの演奏旅行などで、アルゼンチンで46回、ブラジルで29回弾いています。戦後の国外の行き先は、ドイツと日本が1位を争い、2000年代は日本が69回で最も多くなりました。
行き先は、国の経済の大きさとはっきり重なります。国ごとのGDPが世界に占める割合と、その国で開いた演奏会の数を10年ごとに比べると、1960年代から一貫して、経済の大きい国ほど多く行っていました(順位相関0.49〜0.84、どの年代もp<0.05。オーストリアを除く)。呼ぶ指揮者の国籍も、1990年代からは同じように経済の大きい国の人ほど多くなります(0.46〜0.69)。一方、年ごとの為替相場の上下とは、行き先も指揮者の国籍も関係がありませんでした。相場で動いたのではなく、大きな市場へ長い目で向かっていた形です(数字と図はAPPENDIX)。
レコードも、この流れの中にありました。1964年、事務長ヴォービッシュはカルショーに、デッカの米国での売り込みは「気の滅入るほど受け身(depressing passivity)」で、ドイツ・グラモフォンがベルリン・フィルを売り込む「熱意と気前のよさ(energy and generosity)」とは違う、と書き送っています(ドルー論文)。楽団の幹部は同じ年、「世界で最も重要な指揮者たち」と演奏したいとも書いていました。デッカはバーンスタインとの録音を得る見返りに、楽団をライバルのCBSに出し、カルショーは自伝で、デッカが「独占」をうたいながら、実際にはどのオーケストラよりも独占されていなかったと皮肉っています(『レコードはまっすぐに』)。演奏旅行も外の資金で動きました。国立歌劇場の楽員としての給料は国が払う一方、私的な協会としての演奏会は商業ベースで開かれ、演奏旅行を含む利益は楽員どうしで分け合われていました。1956年の米国と日本へのデビュー、インド・香港・フィリピンを回った1959年の世界旅行、1962年のソ連、1965年の南米は、どれも国の資金の支えがあって実現しています。1956年の初の日本公演は朝日新聞の事業団が組み、1959年の再訪はNHKがラジオとテレビで流しました(ペステル論文)。シュトラッサーによれば、1956年の日本公演は資金の当てが立たず、楽員52人の小編成で、多くの人に断られた末にパウル・ヒンデミットが指揮を引き受けました。カラヤンとの1959年の世界旅行については、オーストリア政府の後援と資金援助が無ければ「この壮挙は実現不可能であったろう」と書いています。シュトラッサー自身は、最初の日本旅行を「私の生涯の中でも最も美しい、印象に残るものの一つ」と振り返っています。
お金を出せば、楽団を自分で振ることもできました。実業家のギルバート・キャプランは、20代でマーラーの交響曲第2番《復活》に取りつかれ、楽譜の読み方もほとんど知らないまま、この一曲だけを振る指揮者になりました。オーケストラに報酬を払い、自腹で録音を行い、ウィーン・フィルとも《復活》を録音しています。マウチェリは、ブーレーズとキャプランという、まるで違う二人が、どちらもウィーン・フィルとこの曲を演奏したことがある、という話から本を始めています(『指揮者は何を考えているか』p.9〜11)。公式アーカイブの演奏会の記録には、キャプランの名前はありません。録音のための仕事だったとみられます。
演奏旅行には、国際親善の顔もありました。公式アーカイブとシュトラッサーの回想録から拾うと、占領下の1945年7月には、ソ連が自国の音楽文化の高さを示すためにウィーンへ送り込んだオイストラフらの演奏会「モスクワの芸術家」を楽団が伴奏し、1947年11月には楽友協会で「ソ連30周年」の記念演奏会を開いています。1956年12月10日の「人権の日」には、ニューヨークの国連総会で、ドイツの指揮者カール・シューリヒトの指揮でベートーヴェンとモーツァルトを弾きました。シュトラッサーは、国連の建物の前でハンガリー人がデモをし、ソ連が「ウィーンからあまり離れていない所に人権についての彼らの意見をタンクをもって強化していた」その時期だった、と書いています。1962年3月にはカラヤンとソ連を回り、レニングラードでの2回目の演奏会が、ちょうど楽団の120回目の誕生日にあたったので、シャンペンで祝杯をあげました。その席でカラヤンは、楽団の民主制をとくに讃えたといいます。1971年にはベームとクリップスとモスクワで弾き、1973年4月にはアバドとボスコフスキーの指揮で北京で演奏しています(公式アーカイブ)。東西の境目にある中立国の楽団として、楽団は西の国連にも、東の記念日にも呼ばれました。
外の市場は、楽団の「自分たちで決める」にも口を出しました。1997年の女性の加入が、その例です。1997年2月、楽団は3月の米国楽旅を前にしていました。カリフォルニア州コスタメサとニューヨークのカーネギー・ホールでは、全米女性機構(NOW)や国際女性音楽家連盟が抗議を予告していました(ロサンゼルス・タイムズ 1997年2月7日)。オーストリア政府の芸術局長は、世論は世界中から、とくにアメリカから来ている、議会でも女性の排除が問われている、と語っています(同2月10日)。国立歌劇場の総監督ホーレンダーが楽員に女性の採用を求めると、楽団長のヴェルナー・レーゼルは「これは私的なクラブで、腕をねじられはしない」と言い、圧力に屈するくらいなら楽団を解散すべきだ、とまで述べました(同2月21日)。
それでも2月27日、米国へ発つ前日に、楽団は女性の加入を認め、26年間正式な団員でないままハープを弾いてきたアンナ・レルケシュを、その場で団員にしました。同じ記事は、当時の団員は全員が「白人の中央ヨーロッパの男性」で、楽団は自分たちの「同質性」が独自の響きを生むと主張していた、と伝えています(同2月28日)。レルケシュ自身は当時、オーストリアの新聞に、楽団は米国の女性運動家によるデモの可能性に「ひどく怯えていた」、この圧力が決定的だったと思う、と語りました(ロサンゼルス・タイムズ 2002年3月10日)。オズボーンは、米国の興行代理人だったコロンビア・アーティスツの社長がウィーンへ飛び、方針を改めなければ代理を続けられないと伝えた、とも書いています(オズボーン, 1999年。オズボーン自身の記述で、楽団側の記録では確かめていません)。原因が米国の圧力だけだったとは言えません。国内の政治の圧力もあり、政府の芸術局長は、楽団の中にも抗議が公演の大きな問題になると考える人が多いと聞いている、と語っていました(同2月10日)。ただ、決めた日付は、米国楽旅の前日でした。
1930年代のはじめ、クレメンス・クラウスは楽団の首席の指揮者でした。1932〜33年のシーズンは、8回の定期演奏会を全部クラウスが振っています。シュトラッサーによれば、演奏の水準は高かったものの、「入場券の売上げは目に見えて悪くなった」。楽団との話し合いの席で、クラウスは客の入りの悪さを、自分の「進歩的」なプログラムが保守的な聴衆に受けないせいだとし、「フルトヴェングラーの成功は、彼の森や牧場のプログラムのせいである」と言いました。話はまとまらず、クラウスは定期演奏会の指揮者を辞めています(『栄光のウィーン・フィル』)。ヒンクも、クラウスが当時の「現代もの」を積極的に取り上げたら定期演奏会の客が減り、ウィーンものに戻したら売れ行きが元に戻った、と語っています。定期演奏会は楽団の自主公演なので、客が減ればそのまま楽団の売上げに響きます。このことも含むいくつものトラブルの後、楽団は首席の指揮者を置くのをやめ、その都度客演の指揮者を呼ぶ形にしました(『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』)。公式アーカイブでも、クラウスの名前は1934年を最後に、1939年まで出てきません。そのクラウスが、のちに楽団の最も大きな看板を作ることになります(「戦後、楽団はどうつなぎ直したのか」の章で後述します)。
では、楽団の曲目を動かしてきたのは、指揮者なのでしょうか。公式アーカイブで、作曲家の出どころごとに、その曲の割合と、同じ国の指揮者が振った演奏会の割合を5年ごとに並べると、多くの場合、指揮者は自分の国の曲を持ち込んでいませんでした。
ロシアの曲がその例です。冷戦が終わるまで、ロシアの曲は楽団の曲目の3〜4%を占めていましたが、ロシアの指揮者はほとんど呼ばれていません。ほかの国の指揮者が振る、定番の曲だったわけです。冷戦が終わると、まず曲の方が増えました。
| 5年ごと | 1980〜 | 1985〜 | 1990〜 | 1995〜 | 2000〜 | 2005〜 | 2010〜 | 2015〜 | 2020〜 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ロシア・ソ連の作曲家の曲(%) | 3.7 | 3.9 | 5.7 | 5.2 | 6.2 | 6.5 | 7.0 | 8.5 | 11.2 |
| ロシア・ソ連の指揮者の演奏会(%) | 0.0 | 0.2 | 0.7 | 4.9 | 13.9 | 10.7 | 6.7 | 11.6 | 8.3 |
1990年代前半、ロシアの指揮者がまだ0.7%のうちに、ロシアの曲は5.7%に増えています。ロシアの指揮者が増えるのは5〜10年後で、そこから先は二つがそろって伸び、2020年代前半にはロシアの曲が1割を超えました。曲が先に動き、指揮者が後から来た形です。
イタリアの指揮者は、1970年代から演奏会の2〜3割を振るようになり、1990〜94年には35%に達しましたが、イタリアの作曲家の曲は1〜3%のまま動いていません。アーカイブは演奏会の記録で、国立歌劇場でのオペラは入っていないので、イタリアのオペラは歌劇場の側で弾かれていたはずです。演奏会では、楽団はイタリアの指揮者にウィーンやドイツの曲を振らせていました。米国の指揮者も、1980〜84年には演奏会の57%を振っていますが、米国の作曲家の曲は1.5%です。1955〜59年に55回振ったチェコのクーベリックは、ドヴォルザークを24回取り上げましたが、いちばん多く振ったのはブラームス(29回)でした。
コンサートマスターだったヒンクも、同じことを語っています。曲目の希望は多くの場合指揮者から出るが、面白いことに、多くの指揮者はウィーン・フィルが伝統的に演奏してきたレパートリーを指揮したがる。楽団の曲目が固まっているのは、指揮者たちの希望の結果でもある、と。演奏旅行の先の興行主も、ウィーンものを望みます(『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』)。クラウスの例で見たように、客が求めない曲を並べれば、楽団の売上げに響きます。曲目は聴衆の好みとともに動き、それに合う指揮者が呼ばれる。ただ、誰を呼ぶかを決めるのは、楽団です。
ここから先は筆者の見立てです。レコードが売れた時代には、録音で名が知られた指揮者を呼び、その指揮者との録音がまた売れる、という循環があったはずです。録音を買う人の多い大きな市場の国ほど、この循環の恩恵を受けやすく、そこへの演奏旅行も増えます。レコードの売上の数字が手元に無いため確かめてはいませんが、行き先と指揮者の国籍が経済の大きさと重なっていることとは、矛盾しません。
ここまでの資料を並べると、楽団が守ろうとしたものと、そのために手放したもの、手放させられたものが見えてきます。ただ、守ろうとして守ったのか、結果として残っただけなのかは、項目によって確かさが違います。
| 守ろうとしたもの | 手放したもの(手放させられたもの) |
|---|---|
| 協会という組織そのもの(1938年、帝国の楽団と同じ等級を求め、協会の存続を請願した) | 1938年のユダヤ系の楽員 |
| 音楽を自分たちで決めること(ナチの下でも「楽団長を提案する権利」を「最も重要なポイント」とした) | 亡命した楽員との関係(年金は1956年、米国公演を前に圧力を受けて支払い) |
| 学校とつながった楽員どうしのつながり(追われた教師の弟子たちが、戦後に「ウィーンの弦」を教えた) | 外から来る人材(採用は実質的に旧ハプスブルク圏の男性。女性が団員になれたのは1997年。カーテン越しの試験で1位だった日本人は「顔立ち」を理由に採られなかった) |
| 「ウィーン・フィル」という名前と、その音の評判(守ったというより、結果として残ったものかもしれません) | 過去について自分から語ること(1974年の回想録は、楽団が自分で選んだナチ期の関わりや、ショルティとの摩擦、1965年の楽団内の騒ぎを書いていない) |
組織として何をしたかと、組織の中の一人ひとりが何をしたかは、一致しません。1938年からの楽団長ヴィルヘルム・イェルガーはナチ党員でしたが、楽員のロビチェク夫妻を移送から救ってほしいと、ウィーンの大管区指導者シーラッハに働きかけています(ガーディアン 2013年3月11日)。移送の前の日のことでしたが、間に合わず、夫妻は1941年10月28日にウッチのゲットーへ送られ、翌年そこで殺されました(楽団の公式サイトの報告)。
助けに動いた話は、ほかにもあります。シュトラッサーによれば、1938年11月のポグロムの夜に逮捕され、ダッハウの強制収容所に送られたヴァイオリンのヨーゼフ・ゲリンガーは、友人のイェルガーと同僚たちの働きかけで釈放され、ニューヨークに渡りました。併合の直後には、ユダヤ系の楽員や、妻がユダヤ系の楽員など21人が、規定に当てはまらないとされました。シュトラッサーはフルトヴェングラーと話し合い、まだ追い出されていない人たちのために「特別措置」を求め、9人が残れました。党の気に入らない人のために動くことは、動く側にも大きな危険だった、とシュトラッサーは書いています(『栄光のウィーン・フィル』p.151)。シュトラッサーは、戦時中にヴァイオリンのシュナイダーハンと四重奏団を組んだとき、ヴィオラとチェロに、この「特別許可」で残っていた二人を選んでいます。併合された国で厄介の種になりうると承知のうえで、音楽の質で決めた、と書いています(同 p.170–171)。シュトラッサー自身も、かつてのコンサートマスターで、アカデミーでの恩師だったユリウス・シュトヴェルトカから頼られています。すでに退職していたシュトヴェルトカは住まいを追われ、弟子たちは少しでも暮らしを支えようとしていました。当時楽団長代理だったシュトラッサーに、先生は、自分が移送されないよう介入してほしいと望みました。二度まではフルトヴェングラーが移送を止めました。三度目の呼び出しが来たのは8月で、楽団はウィーンを離れ、決める力のある人たちは休暇で連絡がつきません。シュトヴェルトカから電話を受けたシュトラッサーは、この時に何とかできる唯一の人だった中央政府の担当官に連絡を取ろうとしましたが、つかまりませんでした。シュトヴェルトカはテレージエンシュタットへ送られ、そこで亡くなります。シュトラッサーがそれを知ったのは1945年の後でした。シュトヴェルトカと、同じく退職していたオーボエのアルミン・ティロラーが、ほかの同僚を通じてイェルガーとシュトラッサーに救いを求めた手紙を、シュトラッサーは回想録を書いた時にも手元に持っていました(『栄光のウィーン・フィル』p.194–195)。二人は、同じ日にテレージエンシュタットへ送られています。公式の報告によれば、イェルガーは1941年10月にも、高齢の元楽員5人の移送について取り計らいを求める書面を当局に送っていますが、5人とも助かりませんでした。同じく危険にさらされていたフィッシャーがなぜその5人に入っていなかったのかは、史料からは分からない、と報告は書いています。
「ウィーンの響き」は、最初から決まっていたものではありませんでした。ロゼーとクライスラーの違いがあり、戦争の前後にはヴィブラートが濃くなり、その後は古楽の運動がありました。音は世代ごとに変わり、そのたびに「伝統」と呼ばれています。
変わらなかったのは、誰を楽員にするか、どんな音を良しとするか、どの指揮者を呼ぶかを、楽団が自分たちで決めようとし続けたことの方ではないでしょうか。学校と楽団のつながり、入団試験、コンサートマスターが様式を決める仕組み、首席指揮者を置かないこと。どれも、自分たちで決めるための仕組みです。
楽団が手放すまいとしたのが、何を決めたかという結果よりも、誰が決めるかの方だったことは、いくつもの場面に出てきます。1938年、ナチの当局に規約を書き換えさせられたとき、シュトラッサーは、民主主義のにおいのするものは避けねばならず、選挙は問題外になったと書いたうえで、こう続けています。「しかし、私たちは、楽団長を提案する権利は持つはずで、その人が、当局から任命されることになる。それこそ私たちにとって最も重要なポイントだった、というのも私たちが私たちの同僚の間から代表者を提案できるなら、外面的な事態が別な様相を帯びようと、実質的には、従来のしきたりと変わらずに維持されることになるから」(『栄光のウィーン・フィル』p.160)。同じ年、楽団を守る首席指揮者を引き受けたフルトヴェングラーは、ほかの指揮者と演奏旅行を自分に相談して決めることを条件にしました(同 p.152)。楽団は、守ってもらう代わりに、決める権利の一部を差し出しています。
お金の決め方もそうでした。楽団はどの指揮者にも同じ額の謝礼しか払わず、「私はもっと上手に指揮する」と言うクレンペラーを定期演奏会から失っても、その決まりを曲げませんでした。1936年には、すべての契約は全員に認められなくてはならないという決まりに従い、長年の指揮者ワインガルトナーに、契約を減らしてほしいと頼みに行っています。指揮者を見つけてくるのも楽員です。ヒンクは、演奏旅行の空いた晩にほかの指揮者の演奏会を聴きに行き、自分の耳で確かめてサイモン・ラトルを楽団に推しました。ただ、ヒンクは同じところで、自主運営とはいえ収益のためにはマネージメントやレコード会社の事情も働き、「意に沿わない指揮者と共演せざるをえない」こともある、と認めています(『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』)。決める権利には、初めから外の事情という限りがありました。
この決め方とぶつかった指揮者は、長く続きませんでした。「無条件の権威」で臨んだマーラーの時代は3年で終わり、楽団は1年目から前任のリヒターを呼び戻そうとしています。客が減ったのを自分のプログラムのせいだと認めず、「いささかの妥協にも応ずる気配」のなかったクラウスは、定期演奏会を降りました。カラヤンは楽団の民主制を最初から信用せず、「寄りかかることのできる壁」のベルリンを選びました。トスカニーニでさえ、本番の後に起立を合図して、楽団に座ったまま応じられています。逆に、ベームのように楽員に怖がられても楽団の音の決め方に乗った指揮者や、セルのように外から来ても楽団のやり方を認めた指揮者は、長く呼ばれ続けました。この記事のコラムに並べた指揮者たちの話は、どれも、誰が決めるのかをめぐる話として読むこともできます。
ただし、この自律には二つの面があります。外から口を出されないための力であると同時に、誰を「自分たち」に入れるかを内側で決める力でもあります。1938年、ナチ体制はユダヤ系の楽員を外へ出すよう求めました。その排除は、国家の命令であるのと同時に、楽団の内側の人事として行われました。楽団の中には、そのとき既に多くのナチ党員がいました。自律があったから国家に抵抗できた、とは言えません。自律があったから排除にも加われた、という面がありました。
その一方で、楽団が自分たちの線引きを自分たちだけで守り通せたわけでもありません。目立つのは、楽団が米国へ出ていくときです。1956年、初めての米国公演を前に、在米の亡命楽員が楽団とナチ体制の関わりを米紙に明かすと迫ると、楽団は拒んでいた年金の支払いに応じました。1997年には、米国楽旅を前に抗議が予告され、国内の政治の圧力も重なるなかで、楽団長が「腕をねじられはしない」と言ったわずか1週間後、出発の前日に女性の加入を決めています(「誰がウィーン・フィルを養っていたのか」の章)。米国が楽団を変えた、とまで言うつもりはありません。ただ、国の外の舞台に立つとき、楽団は内側の決まりを外から問われ、二度とも書き換えました。
筆者の考えも書いておきます。ウィーン・フィルは、立て付けとしては国の機関ではなく、楽員がつくる自主的な協会です。女性や日本人を入れなかった時期の判断も、当時の自主的な団体が自分たちの音と名前を守るための考え方として、一定の理解はできると筆者は考えています。ただ、1938年の追放は性格が違います。楽員が自分たちで選んだ線引きではなく国家の迫害と結びつき、追われた人の中から死者が出ました。この二つを同じ「排除」として並べることはしません。
男子校のような閉じた共同体であること自体を、筆者は悪いことだとは考えていません。コラム「男子校のような楽屋」で見たように、男だけ、同じ学校の出身だけで固まった集まりには、そこでしか生まれない冗談や結びつきがあり、楽団はそれを音の一体感の根にも数えてきました。ぶつかったのは、その共同体が、国の劇場の楽員の集まりであり、世界中で演奏して最も高い出演料を取る楽団になったときです。私的なクラブだという楽団の言い分と、国の劇場の公務員で、世界から客を集める楽団でもあるという外からの見方が、1997年に正面からぶつかりました。ウィーン・フィルが守ろうとしたのは、ある音だけではなく、自分たちが自分たちの共同体であることだった、と筆者は考えています。ただ、その「自分たち」の線をどこに引くかは、1938年にも、1997年にも、楽団の外から動かされました。
戦後、追われた教師の弟子たちが「ウィーンの弦」を教え、楽団はそれを「伝統」と呼びました。カルショーに見えた「獰猛な反ユダヤ主義」も、バーンスタインへの熱狂も、この「自分たちで決める」の内側で起きたことだと読めます。これは結論ではなく、資料を読むための仮説です。
Q. ウィーン・フィルは反ユダヤ主義だったのですか
1938年のユダヤ系楽員の追放と、1942年に楽員123人のうち60人がナチ党員か入党候補者だったことは、楽団自身が公式の歴史として認めています。ただ、1960年代にバーンスタインを熱狂的に迎えたことなど、反ユダヤ主義だけでは説明できない記録も残っています。この記事では、楽団が何を自分たちで決めようとしたかという角度から、これらの記録を並べました。
Q. 「ウィーンの響き」は昔から同じなのですか
同じではありません。1920年代の楽団長シュトラッサーは、コンサートマスターのロゼーの奏法を「ほとんどウィーン式とは言いがたかった」と書いています。当時「ウィーン式」と呼ばれたのは、ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーの甘く柔らかい音の方でした。そのクライスラーの特徴だった長いポルタメント(音をずり上げて歌わせる弾き方)は、戦後には古くさく聞こえるものになりました。元コンサートマスターのヒンクは、第二次世界大戦前後の一時期に、どの曲にもヴィブラートを濃くかける弾き方が流行したと語り、ライナー・キュッヒルは「40年前と音はまったく変わりました」と話しています。
Q. 1938年の追放で、ウィーン・フィルの奏法は途切れたのですか
途切れたという証拠は見つかっていません。楽員と教師は失われましたが、戦後のコンサートマスターを育てたサモヒルは、追われたシュトヴェルトカ(またはロゼー)の弟子でした。録音研究でも、第二次世界大戦を境にヴィブラートが急変した根拠はないとされています。
Q. ウィーン・フィルを多く指揮したのは誰ですか
楽団の公式コンサート・アーカイブ(1842年から2026年9月までの10,768公演)を日本財務戦略センターが集計すると、最も多いのはリッカルド・ムーティの528回で、カール・ベーム510回、フェリックス・ワインガルトナー425回、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー365回、ロリン・マゼール363回が続きます。指揮者ごと・時期ごとの回数、多く演奏された曲、演奏した国と都市を、APPENDIXに日本語の表記で掲げました。
Q. ウィーン・フィルと国立歌劇場は、同じオーケストラなのですか
楽員は同じですが、身分は二つあります。楽員はまず国立歌劇場管弦楽団に雇われて毎晩のオペラを弾き、その中から会員になった人たちが、ウィーン・フィルハーモニーという私的な協会をつくっています。演奏会や録音、演奏旅行の契約は、この協会が結びます。元楽団長シュトラッサーは、楽員は「二人の主人に仕えている」と書いています。
Q. ウィーン・フィルとカラヤンは、どういう関係だったのですか
公式アーカイブで290回の共演がありますが、大きな空白が二つあります。1950〜57年は、楽団がフルトヴェングラーへの義理を選んだため、1964年6月から1975年3月まではウィーンでの演奏会が途絶えました。カラヤンは楽団の常任を頼まれたとき、「あんた方のデモクラシー」は後で決定を変えるかもしれないと言って断り、ベルリン・フィルを選びました。1964年に国立歌劇場を去った際、楽団は集会で「中立」を決め、元楽団長シュトラッサーはこれを自分の「最大の過失」と書いています。関係が戻ったのは1980年代で、1989年4月23日のブルックナーの第7番が最後の共演でした。
Q. カール・ベームは、楽員にどう見られていたのですか
公式アーカイブで510回と、ムーティに次いで2番目に多く振った指揮者です。評価は楽員の年季で分かれ、ベームと同じ世代の楽団長シュトラッサーは温かく書き、若い楽員の側からは「若い団員をいじめる癖がありました」(キュッヒル)と語られます。コンサートマスターのヒンクは、ベームが新入りを試すのは、楽団の響きが変わるのを嫌ったからだと説明しています。日本では絶大な人気がありました。
Q. トスカニーニはウィーン・フィルを何回指揮したのですか
公式アーカイブでは、1933年10月から1937年10月までの4年間に55回です。招いたこと自体が、ナチ・ドイツへの対抗という意味を持ちました。1938年2月、オーストリアの首相がヒトラーを訪ねると、トスカニーニはこれを降伏と見なして出演を断り、戦後も二度とオーストリアに戻りませんでした。
Q. ウィーン・フィルは、なぜ女性を入れなかったのですか。いつから入れたのですか
楽団は、自分たちの「同質性」が独自の響きを生むと主張し、私的な協会として団員を自分たちで選んできました。初めて女性を団員にしたのは1997年2月27日で、ハープのアンナ・レルケシュです。決めたのは米国楽旅に発つ前日で、米国での抗議の予告と、オーストリア国内の政治の圧力が重なるなかでのことでした。2006年の時点でも、ウィーン・フィルの名簿に載る女性は、ハープのシャルロッテ・バルツァライト1人でした。2024年には、団員145人のうち24人が女性です。
Q. 日本人はウィーン・フィルに入れるのですか
元楽団長シュトラッサーは、カーテン越しの入団試験で1位になった日本人の志願者が、顔立ちを理由に採られなかったと書いています。2003年には杉山康人がテューバ奏者として国立歌劇場管弦楽団の試験に合格しました。日本人の母を持つヘーデンボルク兄弟の兄は2004年に団員になり、2025年にはルーカス・タケシ・シュトラトマンが団員になっています。
Q. ナチ時代のウィーン・フィルは、何をしていたのですか
1938年の併合の後、ユダヤ系などの楽員が追われ、追われた楽員と退職者のうち5人が移送されて殺され、2人がウィーンで亡くなりました。1942年には現役の楽員の約49%がナチ党員でした。楽団は宣伝の役目を担い、そのおかげで楽員は兵役を免れたと、シュトラッサー自身が書いています。1942年にはナチの高官に名誉指輪などを贈り、これらの顕彰は2013年に楽団の総会で取り消されました。
Q. ニューイヤー・コンサートは、いつ始まったのですか
1939年12月31日、クレメンス・クラウスの指揮で、ヨハン・シュトラウスの曲を並べた放送用の特別演奏会として始まりました。楽団の公式サイトによれば、その純益は全額がナチの募金運動に寄付されました。「ニューイヤー・コンサート」と名付けられたのは戦後の1946年で、指揮はナチ時代に演奏を禁じられていたヨーゼフ・クリップスでした。いまは90を超える国で放送されています。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、1842年の創立以来のすべての演奏会を公式サイトのコンサート・アーカイブで公開しています。日本財務戦略センターは、2026年10月2日時点で掲載されていた10,768公演(1842年3月28日〜2026年9月29日)を、指揮者・曲・国・都市・会場ごとに集計し、日本語の表記を付けました。集計の単位は演奏会で、同じ演奏会に指揮者が2人いれば両方に1回ずつ、同じ演奏会の中で同じ曲が2回演奏されていれば1回として扱っています。
表A1 時期ごとの演奏会の数(1年あたりは、その時期の年数で割ったもの。1842年は3月28日から、2026年は9月29日まで)
| 時期 | 演奏会 | 1年あたり |
|---|---|---|
| 〜1918年 | 969 | 13 |
| 1919〜1937年 | 1,353 | 71 |
| 1938〜1945年 | 646 | 81 |
| 1946〜1970年 | 1,807 | 72 |
| 1971〜2000年 | 2,475 | 82 |
| 2001〜年 | 3,518 | 137 |
演奏会の数は、時代とともに大きく増えています。1918年までは年に十数回だったのが、戦間期から1990年代までは年70〜80回台、2001年以降は年に約140回です。同じ「500回」でも、演奏会の少ない時代と多い時代では重みが違います。そこで表A2-2では、指揮者ごとに、その年の演奏会のうち何割を振ったかを年ごとに出して足し合わせ、「楽団の演奏会の何年分を一人で振ったか」に直しました。
表A2 指揮した演奏会の多い指揮者(上位60人。全462人の一覧はCSVで配布)
| 順位 | 指揮者 | 計 | 初回〜最後 | 〜1918 | 1919〜37 | 1938〜45 | 1946〜70 | 1971〜2000 | 2001〜 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti) | 528 | 1971〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 229 | 299 |
| 2 | カール・ベーム(Karl Böhm) | 510 | 1933〜1980 | 0 | 2 | 99 | 280 | 129 | 0 |
| 3 | フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner) | 425 | 1908〜1945 | 135 | 289 | 1 | 0 | 0 | 0 |
| 4 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler) | 365 | 1922〜1954 | 0 | 97 | 108 | 160 | 0 | 0 |
| 5 | ロリン・マゼール(Lorin Maazel) | 363 | 1962〜2014 | 0 | 0 | 0 | 40 | 247 | 76 |
| 6 | ズービン・メータ(Zubin Mehta) | 360 | 1961〜2026 | 0 | 0 | 0 | 26 | 131 | 203 |
| 7 | クラウディオ・アバド(Claudio Abbado) | 329 | 1965〜1997 | 0 | 0 | 0 | 22 | 307 | 0 |
| 8 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss) | 327 | 1924〜1954 | 0 | 121 | 109 | 97 | 0 | 0 |
| 9 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan) | 290 | 1934〜1989 | 0 | 1 | 0 | 199 | 90 | 0 |
| 10 | フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest) | 231 | 1998〜2025 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 225 |
| 11 | ハンス・リヒター(Hans Richter) | 223 | 1875〜1898 | 223 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 12 | クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann) | 216 | 2000〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 214 |
| 13 | レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein) | 193 | 1966〜1990 | 0 | 0 | 0 | 18 | 175 | 0 |
| 14 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | 187 | 1907〜1960 | 6 | 147 | 5 | 29 | 0 | 0 |
| 15 | ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch) | 187 | 1929〜1964 | 0 | 12 | 95 | 80 | 0 | 0 |
| 16 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | 179 | 1901〜1931 | 46 | 133 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 17 | アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons) | 174 | 2010〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 174 |
| 18 | 小澤征爾(Seiji Ozawa) | 158 | 1966〜2009 | 0 | 0 | 0 | 4 | 93 | 61 |
| 19 | ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev) | 155 | 1997〜2022 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 146 |
| 20 | ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim) | 149 | 1989〜2022 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30 | 119 |
| 21 | ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt) | 138 | 1984〜2015 | 0 | 0 | 0 | 0 | 26 | 112 |
| 22 | オットー・デッソフ(Otto Dessoff) | 133 | 1860〜1877 | 133 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 23 | サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle) | 130 | 1993〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 46 | 84 |
| 24 | マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons) | 124 | 1992〜2019 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21 | 103 |
| 25 | ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink) | 111 | 1972〜2019 | 0 | 0 | 0 | 0 | 68 | 43 |
| 26 | リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss) | 100 | 1906〜1944 | 10 | 77 | 13 | 0 | 0 | 0 |
| 27 | ダニエーレ・ガッティ(Daniele Gatti) | 98 | 2005〜2024 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 98 |
| 28 | ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti) | 97 | 1951〜1996 | 0 | 0 | 0 | 31 | 66 | 0 |
| 29 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine) | 97 | 1976〜1995 | 0 | 0 | 0 | 0 | 97 | 0 |
| 30 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | 95 | 1934〜1973 | 0 | 5 | 22 | 65 | 3 | 0 |
| 31 | クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach) | 90 | 2003〜2020 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 90 |
| 32 | ダニエル・ハーディング(Daniel Harding) | 90 | 2004〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 90 |
| 33 | アンドレ・プレヴィン(André Previn) | 89 | 1978〜2003 | 0 | 0 | 0 | 0 | 83 | 6 |
| 34 | ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez) | 88 | 1962〜2012 | 0 | 0 | 0 | 2 | 26 | 60 |
| 35 | ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky) | 86 | 1954〜1982 | 0 | 0 | 0 | 53 | 33 | 0 |
| 36 | グスターボ・ドゥダメル(Gustavo Dudamel) | 84 | 2007〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 84 |
| 37 | ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik) | 82 | 1950〜1971 | 0 | 0 | 0 | 78 | 4 | 0 |
| 38 | カール・シューリヒト(Carl Schuricht) | 75 | 1934〜1965 | 0 | 2 | 1 | 72 | 0 | 0 |
| 39 | クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi) | 69 | 1966〜2019 | 0 | 0 | 0 | 2 | 64 | 3 |
| 40 | ジョルジュ・プレートル(Georges Prêtre) | 67 | 1963〜2013 | 0 | 0 | 0 | 3 | 11 | 53 |
| 41 | ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt) | 62 | 2011〜2024 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 62 |
| 42 | ルドルフ・モラルト(Rudolf Moralt) | 59 | 1939〜1957 | 0 | 0 | 27 | 32 | 0 | 0 |
| 43 | トゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev) | 58 | 2009〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 58 |
| 44 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner) | 57 | 1921〜1971 | 0 | 42 | 0 | 14 | 1 | 0 |
| 45 | アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini) | 55 | 1933〜1937 | 0 | 55 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 46 | セミヨン・ビシュコフ(Semyon Bychkov) | 54 | 2003〜2020 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 54 |
| 47 | ホルスト・シュタイン(Horst Stein) | 47 | 1970〜1991 | 0 | 0 | 0 | 6 | 41 | 0 |
| 48 | インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher) | 44 | 2003〜2023 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 44 |
| 49 | グスタフ・マーラー(Gustav Mahler) | 42 | 1898〜1907 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 50 | レオポルト・ハーガー(Leopold Hager) | 40 | 1972〜2013 | 0 | 0 | 0 | 0 | 34 | 6 |
| 51 | ヤクブ・フルシャ(Jakub Hrůša) | 40 | 2019〜2025 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 40 |
| 52 | アンドレス・オロスコ=エストラーダ(Andrés Orozco-Estrada) | 38 | 1931〜2024 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 37 |
| 53 | ローベルト・ヘーガー(Robert Heger) | 37 | 1926〜1933 | 0 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 54 | オスヴァルト・カバスタ(Oswald Kabasta) | 37 | 1930〜1944 | 0 | 26 | 11 | 0 | 0 | 0 |
| 55 | ヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nézet-Séguin) | 37 | 2010〜2026 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 37 |
| 56 | アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens) | 36 | 1955〜1958 | 0 | 0 | 0 | 36 | 0 | 0 |
| 57 | フィリップ・ジョルダン(Philippe Jordan) | 36 | 2004〜2025 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 |
| 58 | アラン・アルティノグリュ(Alain Altinoglu) | 36 | 2016〜2025 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 |
| 59 | ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos) | 35 | 1954〜1960 | 0 | 0 | 0 | 35 | 0 | 0 |
| 60 | カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini) | 35 | 1971〜1996 | 0 | 0 | 0 | 0 | 35 | 0 |
表A2-2 ならした回数の多い指揮者(演奏会の多い年ほど1回の重みを軽くしたもの。上位20人。演奏会30回以上の人に限る)
| 順位 | 指揮者 | 演奏会 | 何年分 | 初回〜最後 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | ハンス・リヒター(Hans Richter) | 223 | 15.2 | 1875〜1898 |
| 2 | フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner) | 425 | 10.9 | 1908〜1945 |
| 3 | オットー・デッソフ(Otto Dessoff) | 133 | 10.8 | 1860〜1877 |
| 4 | カール・ベーム(Karl Böhm) | 510 | 6.9 | 1933〜1980 |
| 5 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler) | 365 | 4.9 | 1922〜1954 |
| 6 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti) | 528 | 4.8 | 1971〜2026 |
| 7 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | 179 | 4.5 | 1901〜1931 |
| 8 | ロリン・マゼール(Lorin Maazel) | 363 | 4.2 | 1962〜2014 |
| 9 | クラウディオ・アバド(Claudio Abbado) | 329 | 4.2 | 1965〜1997 |
| 10 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan) | 290 | 4.1 | 1934〜1989 |
| 11 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss) | 327 | 4.1 | 1924〜1954 |
| 12 | ズービン・メータ(Zubin Mehta) | 360 | 3.4 | 1961〜2026 |
| 13 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | 187 | 2.8 | 1907〜1960 |
| 14 | ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch) | 187 | 2.6 | 1929〜1964 |
| 15 | レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein) | 193 | 2.5 | 1966〜1990 |
| 16 | グスタフ・マーラー(Gustav Mahler) | 42 | 2.2 | 1898〜1907 |
| 17 | ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(Josef Hellmesberger, Jr.) | 33 | 2.1 | 1864〜1903 |
| 18 | リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss) | 100 | 1.7 | 1906〜1944 |
| 19 | フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest) | 231 | 1.6 | 1998〜2025 |
| 20 | クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann) | 216 | 1.6 | 2000〜2026 |
ならすと、ハンス・リヒター(1875〜98年)とフェリックス・ワインガルトナー(1908〜1927年に定期演奏会を担当)が飛び抜けます。演奏会の少なかった時代に、楽団の定期をほぼ一人で振っていたためです。ベームは回数でも、ならしても、戦後の指揮者の中で最も多く振った人です。回数で1位のムーティは、ならすとフルトヴェングラーとほぼ同じになります。
ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振った指揮者(年ごと。かっこ内は演奏会の数。曲目つきの一覧はCSVで配布)
| 年 | 指揮者 |
|---|---|
| 1920 | リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(1) |
| 1922 | フランツ・シャルク(Franz Schalk)(3)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(2)、Carl Alwin(2) |
| 1925 | Karl Muck(2)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(2)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(2) |
| 1926 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(3)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(3)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(3)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(1) |
| 1927 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(7)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(4)、ローベルト・ヘーガー(Robert Heger)(2)、Joseph Messner(2)、Einar Nilson(1)、Paul Kerby(1) |
| 1928 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(4)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(4) |
| 1929 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(7)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(5)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(3)、Fritz Dr. Busch(1)、Ernst von Dohnányi(1)、Paul Kerby(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1) |
| 1930 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(7)、フランツ・シャルク(Franz Schalk)(5)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(5)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(3)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1)、Ernst Wolters(1) |
| 1931 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(7)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(6)、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(5)、Arturo Lucon(3)、ローベルト・ヘーガー(Robert Heger)(3)、Thomas Sir Beecham(1) |
| 1932 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(7)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(6)、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(4)、Fritz Dr. Busch(3)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(3)、Philippe Gaubert(1) |
| 1933 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(7)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(7)、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(3)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(2)、Vittorio Gui(1)、ローベルト・ヘーガー(Robert Heger)(1)、オットー・クレンペラー(Otto Klemperer)(1) |
| 1934 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(7)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(6)、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)(3)、Willem Mengelberg(1)、Vittorio Gui(1)、フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner)(1)、Sidney Beer(1)、Albert Dr. Coates(1)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1) |
| 1935 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(6)、フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner)(5)、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)(5)、エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)(2)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(1)、Adrian Boult(1)、Carmen Weingartner-Studer(1)、Carl Alwin(1) |
| 1936 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(7)、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)(5)、フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner)(4)、Pierre Monteux(1)、Artur Rodzinski(1) |
| 1937 | アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)(7)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(6)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(4)、Artur Rodzinski(1)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1) |
| 1938 | ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(5)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、Vittorio Gui(3)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(2)、Edwin Fischer(1) |
| 1939 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、Tullio Serafin(3)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(3)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(2)、ルドルフ・モラルト(Rudolf Moralt)(1) |
| 1940 | ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(6)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(4)、カール・ベーム(Karl Böhm)(1)、Franz Lehár(1) |
| 1941 | カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(3)、クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(2)、Anton Paulik(1) |
| 1942 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(6)、Willem Mengelberg(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(1)、Ernest Ansermet(1) |
| 1943 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(4)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、George Georgescu(2)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(1)、Ernest Ansermet(1) |
| 1944 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(2)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1) |
| 1945 | フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner)(1) |
| 1946 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(3)、カール・シューリヒト(Carl Schuricht)(2)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(1)、ハンス・スワロフスキー(Hans Swarowsky)(1)、Edwin Fischer(1)、Felix Prohaska(1)、Sir John Barbirolli(1)、Ernest Ansermet(1)、Charles Munch(1)、Bertil Weitzelsberger(1) |
| 1947 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(2)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(2)、Edwin Fischer(1)、Ferenc Fricsay(1)、カール・ベーム(Karl Böhm)(1)、Charles Munch(1)、Sir John Barbirolli(1)、オットー・クレンペラー(Otto Klemperer)(1)、Ernest Ansermet(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1) |
| 1948 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(4)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(2)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(1)、Edwin Fischer(1)、Alceo Galliera(1)、Artur Rodzinski(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1) |
| 1949 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(3)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(3)、ジョージ・セル(George Szell)(2)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(2)、Edwin Fischer(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1) |
| 1950 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(5)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(2)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1) |
| 1951 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(4)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、Leopold Stokowski(2)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1)、Edwin Fischer(1)、オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum)(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1) |
| 1952 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss)(3)、ルドルフ・モラルト(Rudolf Moralt)(2)、Victor de Sabata(2)、Ferenc Fricsay(1)、マリオ・ロッシ(Mario Rossi)(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1)、Paul Hindemith(1)、Igor Markevitch(1)、ジョージ・セル(George Szell)(1) |
| 1953 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(3)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(2)、Victor de Sabata(1)、Guido Cantelli(1)、Edwin Fischer(1)、Igor Markevitch(1) |
| 1954 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ジョージ・セル(George Szell)(2)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(2)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1)、Edwin Fischer(1)、Guido Cantelli(1) |
| 1955 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1)、ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)(1)、Rudolf Kempe(1)、Eugene Ormandy(1)、ジョージ・セル(George Szell)(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1)、Charles Munch(1) |
| 1956 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(3)、ジョージ・セル(George Szell)(2)、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)(1)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1)、Fritz Reiner(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1) |
| 1957 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(5)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(3)、ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth)(2)、ジョージ・セル(George Szell)(1)、Bernhard Conz(1) |
| 1958 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth)(2)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(2) |
| 1959 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ジョージ・セル(George Szell)(1)、Bernhard Conz(1)、Antal Dorati(1)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(1)、Karl Münchinger(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1) |
| 1960 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、Nello Santi(1)、Karl Münchinger(1)、ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth)(1)、カール・シューリヒト(Carl Schuricht)(1)、Heinz Wallberg(1)、ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitri Mitropoulos)(1) |
| 1961 | Ferenc Fricsay(2)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、Heinz Wallberg(2)、Aram Khachaturian(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、Karl Münchinger(1)、Gianandrea Gavazzeni(1)、カール・シューリヒト(Carl Schuricht)(1) |
| 1962 | カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、マリオ・ロッシ(Mario Rossi)(1)、Heinz Wallberg(1)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1)、ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth)(1)、Bernhard Conz(1)、Peter Maag(1)、Paul Klecki(1)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1) |
| 1963 | ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、Istvan Kertész(2)、Paul Klecki(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1) |
| 1964 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、Istvan Kertész(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1) |
| 1965 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(2)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1)、カール・シューリヒト(Carl Schuricht)(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1966 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1) |
| 1967 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(2)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(2)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、Moshe Atzmon(1) |
| 1968 | カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(2)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、Stanislaw Skrowaczewski(1)、ジョージ・セル(George Szell)(1)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1) |
| 1969 | カール・ベーム(Karl Böhm)(5)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(2)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、Eliahu Inbal(1)、ジョージ・セル(George Szell)(1)、ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips)(1) |
| 1970 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(4)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(2)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(2)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、クルト・マズーア(Kurt Masur)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1971 | カール・ベーム(Karl Böhm)(5)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、Bernhard Conz(1)、Leif Segerstam(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik)(1)、Juri Temirkanow(1)、カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)(1) |
| 1972 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、Istvan Kertész(1)、Leif Segerstam(1)、Jesus Lopez Cobos(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、David Oistrach(1) |
| 1973 | カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、Wolfgang Schneiderhan(1)、Leif Segerstam(1)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1) |
| 1974 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、Dmitrij Kitaenko(1)、Sir Colin Davis(1)、Leif Segerstam(1)、Witold Rovicki(1) |
| 1975 | カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、Leif Segerstam(1)、ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky)(1)、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)(1) |
| 1976 | カール・ベーム(Karl Böhm)(4)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、Bernhard Klee(1)、Kazuhiro Koizumi(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1977 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、Gerd Albrecht(1)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)(1) |
| 1978 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(2)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、レオポルト・ハーガー(Leopold Hager)(1) |
| 1979 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(2)、Silvio Varviso(1)、Bernhard Klee(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)(1) |
| 1980 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(4)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、カール・ベーム(Karl Böhm)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、Gustav Kuhn(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1) |
| 1981 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(4)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(2)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(2)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1982 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、Klaus Tennstedt(1) |
| 1983 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(3)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1) |
| 1984 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(4)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、Riccardo Chailly(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1985 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、Riccardo Chailly(2)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1)、アンドレ・プレヴィン(André Previn)(1) |
| 1986 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、Woldemar Nelsson(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1987 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(2)、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)(2)、カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1988 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(4)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(2)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(2)、Riccardo Chailly(1)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1)、Bruno Weil(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1) |
| 1989 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(3)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(3)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1)、Sir John Pritchard(1)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、ジョルジュ・プレートル(Georges Prêtre)(1)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(1)、Gustav Kuhn(1)、カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)(1)、Ralf Weikert(1)、アンドレ・プレヴィン(André Previn)(1) |
| 1990 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(2)、ホルスト・シュタイン(Horst Stein)(2)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1991 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(3)、アンドレ・プレヴィン(André Previn)(2)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(1)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、Sir Colin Davis(1)、カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)(1) |
| 1992 | クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(3)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(3)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(3)、Gustav Kuhn(1)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(1) |
| 1993 | ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(2)、Lord Yehudi Menuhin(2)、ジェイムズ・レヴァイン(James Levine)(2)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(1) |
| 1994 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(3)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(2)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(1)、Kent Nagano(1)、Anne Manson(1)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(1) |
| 1995 | ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)(3)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(2)、John Eliot Gardiner(2)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1) |
| 1996 | ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(3)、ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti)(3)、サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(2)、Donald C. Runnicles(1)、Philippe Auguin(1) |
| 1997 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(2)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(2)、John Eliot Gardiner(2)、Roger Arthur Carver Norrington(2)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(1)、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1) |
| 1998 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(2)、Sir Neville Marriner(2)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(2)、Michael Gielen(1)、Sir Charles Mackerras(1)、Wolfgang Gieron(1) |
| 1999 | ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(4)、Kent Nagano(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、小澤征爾(Seiji Ozawa)(2)、サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)(2)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1) |
| 2000 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch)(2)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(2)、Roger Arthur Carver Norrington(2)、ズービン・メータ(Zubin Mehta)(2)、Lothar Zagrosek(1)、Sir Charles Mackerras(1)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(1)、Yuri Bashmet(1)、Peter Schneider(1) |
| 2001 | サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)(5)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(1)、Lothar Zagrosek(1)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi)(1) |
| 2002 | ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(4)、クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(2)、Bertrand de Billy(1)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(1) |
| 2003 | ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(4)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(3)、セミヨン・ビシュコフ(Semyon Bychkov)(2)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(2)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、Kent Nagano(1)、Markus Stenz(1)、Miguel Gomez-Martinez(1) |
| 2004 | 小澤征爾(Seiji Ozawa)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach)(3)、ジョルジュ・プレートル(Georges Prêtre)(3)、ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(3)、フィリップ・ジョルダン(Philippe Jordan)(1)、セミヨン・ビシュコフ(Semyon Bychkov)(1)、Donald C. Runnicles(1)、Peter Schneider(1) |
| 2005 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(3)、ダニエーレ・ガッティ(Daniele Gatti)(3)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(2)、ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(2)、Carlo Rizzi(1)、アダム・フィッシャー(Adam Fischer)(1) |
| 2006 | ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(4)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ダニエル・ハーディング(Daniel Harding)(3)、ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)(2)、Roger Arthur Carver Norrington(2)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、Manfred Honeck(1)、Christopher Moulds(1) |
| 2007 | ダニエル・ハーディング(Daniel Harding)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest)(2)、ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)(2)、ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(2)、Markus Stenz(1)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(1) |
| 2008 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(5)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、Jonathan Nott(2)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(2)、エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen)(2)、Bertrand de Billy(1)、Peter Eötvös(1)、Gregory Vayda(1)、Peter Schneider(1) |
| 2009 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(2)、エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen)(2)、フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest)(2)、グスターボ・ドゥダメル(Gustavo Dudamel)(2)、アダム・フィッシャー(Adam Fischer)(1)、インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher)(1)、ダニエル・ハーディング(Daniel Harding)(1) |
| 2010 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(4)、ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)(2)、Riccardo Chailly(2)、クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach)(2)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(2)、Marc Albrecht(1)、ダニエーレ・ガッティ(Daniele Gatti)(1)、ヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nézet-Séguin)(1) |
| 2011 | クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(3)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)(2)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(2)、フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest)(2)、エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen)(1)、ヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nézet-Séguin)(1) |
| 2012 | ダニエーレ・ガッティ(Daniele Gatti)(8)、ダニエル・ハーディング(Daniel Harding)(7)、インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher)(5)、サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)(4)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(2)、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)(2)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(2)、Heinz Holliger(1) |
| 2013 | ズービン・メータ(Zubin Mehta)(8)、ダニエーレ・ガッティ(Daniele Gatti)(6)、Antonio Pappano(6)、クリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach)(5)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)(2)、クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(2)、ロリン・マゼール(Lorin Maazel)(2) |
| 2019 | Thomas Hengelbrock(6)、Enrique Mazzola(6)、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)(6)、フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Moest)(5)、インゴ・メッツマッハー(Ingo Metzmacher)(4)、リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(3)、ヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)(2)、ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)(2)、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)(2) |
| 2020 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)(1) |
表A3 演奏した回数の多い曲(上位50曲。全5,597曲の一覧はCSVで配布)
| 順位 | 作曲家 | 曲 | 演奏会 | 初演奏〜最後 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | ベートーヴェン | 交響曲第7番 イ長調 作品92 | 389 | 1842〜2026 |
| 2 | ヨハン・シュトラウス2世 | ワルツ《美しく青きドナウ》作品314 | 381 | 1873〜2017 |
| 3 | ベートーヴェン | 交響曲第5番 ハ短調 作品67 | 356 | 1842〜2025 |
| 4 | シューベルト | 交響曲 ロ短調 D759《未完成》 | 342 | 1872〜2025 |
| 5 | ベートーヴェン | 交響曲第3番 変ホ長調 作品55《英雄》 | 322 | 1843〜2020 |
| 6 | モーツァルト | 交響曲第41番 ハ長調 K.551《ジュピター》 | 287 | 1844〜2026 |
| 7 | ブラームス | 交響曲第4番 ホ短調 作品98 | 274 | 1886〜2025 |
| 8 | ブラームス | 交響曲第2番 ニ長調 作品73 | 272 | 1877〜2024 |
| 9 | シューベルト | 交響曲 ハ長調 D944《グレート》 | 262 | 1857〜2025 |
| 10 | モーツァルト | 交響曲第40番 ト短調 K.550 | 258 | 1842〜2025 |
| 11 | ブラームス | 交響曲第1番 ハ短調 作品68 | 255 | 1878〜2026 |
| 12 | リヒャルト・シュトラウス | 交響詩《ドン・ファン》作品20 | 240 | 1892〜2026 |
| 13 | ブルックナー | 交響曲第7番 ホ長調 | 238 | 1886〜2025 |
| 14 | ベートーヴェン | 交響曲第6番 ヘ長調 作品68《田園》 | 237 | 1844〜2020 |
| 15 | モーツァルト | 交響曲第39番 変ホ長調 K.543 | 225 | 1844〜2026 |
| 16 | ベートーヴェン | 《レオノーレ》序曲第3番 作品72b | 221 | 1842〜2019 |
| 17 | リヒャルト・シュトラウス | 交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》作品28 | 215 | 1896〜2026 |
| 18 | ベートーヴェン | 交響曲第9番 ニ短調 作品125 | 207 | 1843〜2024 |
| 19 | ヨハン・シュトラウス2世 | ワルツ《皇帝円舞曲》作品437 | 191 | 1924〜2021 |
| 20 | ヨハン・シュトラウス2世 | 喜歌劇《こうもり》序曲 | 190 | 1894〜2022 |
| 21 | ヨハン・シュトラウス1世 | 《ラデツキー行進曲》作品228 | 189 | 1928〜2012 |
| 22 | ベートーヴェン | 《エグモント》序曲 作品84 | 188 | 1846〜2020 |
| 23 | ベートーヴェン | 交響曲第8番 ヘ長調 作品93 | 178 | 1845〜2020 |
| 24 | チャイコフスキー | 交響曲第6番 ロ短調 作品74《悲愴》 | 170 | 1895〜2025 |
| 25 | モーツァルト | 交響曲第35番 ニ長調 K.385《ハフナー》 | 169 | 1898〜2024 |
| 26 | ワーグナー | 楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲 | 168 | 1863〜2013 |
| 27 | リヒャルト・シュトラウス | 交響詩《死と変容》作品24 | 161 | 1893〜2022 |
| 28 | ベートーヴェン | 交響曲第4番 変ロ長調 作品60 | 156 | 1845〜2023 |
| 29 | ベートーヴェン | 交響曲第2番 ニ長調 作品36 | 151 | 1847〜2026 |
| 30 | リヒャルト・シュトラウス | 交響詩《英雄の生涯》作品40 | 149 | 1904〜2025 |
| 31 | ヨハン・シュトラウス2世/ヨーゼフ・シュトラウス | 《ピツィカート・ポルカ》 | 148 | 1926〜2012 |
| 32 | ブラームス | 交響曲第3番 ヘ長調 作品90 | 147 | 1883〜2023 |
| 33 | ヨハン・シュトラウス2世 | 《常動曲》作品257 | 146 | 1925〜2025 |
| 34 | マーラー | 交響曲第1番 ニ長調 | 141 | 1900〜2026 |
| 35 | ベートーヴェン | 交響曲第1番 ハ長調 作品21 | 139 | 1847〜2020 |
| 36 | ベートーヴェン | 《コリオラン》序曲 作品62 | 136 | 1845〜2020 |
| 37 | モーツァルト | 交響曲第38番 ニ長調 K.504《プラハ》 | 134 | 1861〜2025 |
| 38 | ブルックナー | 交響曲第9番 ニ短調 | 130 | 1906〜2025 |
| 39 | リヒャルト・シュトラウス | 交響詩《ツァラトゥストラはこう語った》作品30 | 127 | 1897〜2026 |
| 40 | ヨーゼフ・シュトラウス | ワルツ《デリリエン》作品212 | 127 | 1941〜2024 |
| 41 | ドヴォルザーク | 交響曲第9番 ホ短調 作品95《新世界より》 | 126 | 1896〜2025 |
| 42 | チャイコフスキー | 交響曲第5番 ホ短調 作品64 | 123 | 1896〜2021 |
| 43 | ブルックナー | 交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》(第3稿) | 121 | 1881〜2013 |
| 44 | ブルックナー | 交響曲第8番 ハ短調 | 118 | 1892〜2007 |
| 45 | ウェーバー | 《オベロン》序曲 | 117 | 1846〜2026 |
| 46 | シューマン | 交響曲第4番 ニ短調 作品120 | 116 | 1860〜2021 |
| 47 | ベルリオーズ | 幻想交響曲 作品14 | 115 | 1862〜2025 |
| 48 | ブラームス | ハイドンの主題による変奏曲 作品56a | 108 | 1873〜2018 |
| 49 | モーツァルト | セレナード ト長調 K.525《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》 | 106 | 1911〜2019 |
| 50 | ワーグナー | 楽劇《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死 | 105 | 1863〜2024 |
表A3-2 モーツァルトの《レクイエム》を演奏した演奏会(全52回。演奏会の名前はアーカイブの記載のまま)
| 日付 | 指揮者 | 演奏会 | 会場 |
|---|---|---|---|
| 1856-01-28 | Franz Liszt | Gala Concert 100th Birthday of Mozart/Charity | Hofburg Palace, Redoutensaal, Vienna, Austria |
| 1877-11-15 | Josef Hellmesberger (Vater) | Memorial Concert Herbeck | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1885-11-12 | ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(Josef Hellmesberger, Jr.) | Memorial Service Leopold Freiherr Von Hofmann/Charity | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1906-01-27 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | Mozart Gala/Charity | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1906-01-28 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | Mozart Gala/Charity | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1910-03-20 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | Memorial Service Mayor Lueger/Charity | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1910-07-30 | Josef Reiter | Mozart Festival Salzburg | Große Aula der Universität, Salzburg, Austria |
| 1912-05-12 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | Concert Wiener Singakademie | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1916-11-29 | フランツ・シャルク(Franz Schalk) | Concert of the Society of the Friends of Music in Vienna In Memoriam Emporer Franz Joseph I of Austria | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1918-02-18 | Karl Luze | Requiem 10th Anniversary of Death of Hans Putz | Schottenkirche |
| 1921-08-12 | ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner) | Mozart Week Salzburg | Salzburg Cathedral |
| 1921-09-18 | Karl Luze | Concert Vienna State Opera Choir | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1923-06-10 | Alois Pachernegg | Concert in Leoben/Upper Styrian Music Week | Stadtpfarrkirche Leoben |
| 1924-11-03 | Ferdinand Habel | Radio Concert | Ravag |
| 1927-08-25 | Joseph Messner | Salzburg Festival | Salzburg Cathedral |
| 1931-02-02 | アンドレス・オロスコ=エストラーダ(Andrés Orozco-Estrada) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1937-06-29 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | Concert in Paris | Théatre des Champs-Elysées, Paris, France |
| 1941-12-05 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler) | Vienna Mozart Week | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1941-12-06 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler) | Vienna Mozart Week | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1944-11-01 | カール・ベーム(Karl Böhm) | Concert in the Konzerthaus | Vienna Konzerthaus, Large Hall, Vienna, Austria |
| 1944-11-02 | カール・ベーム(Karl Böhm) | Concert in the Konzerthaus | Vienna Konzerthaus, Large Hall, Vienna, Austria |
| 1949-06-06 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | Concert in Florence | Basilica della Santissima Annunziata, Florence, Italy |
| 1953-05-17 | クレメンス・クラウス(Clemens Krauss) | Concert in Paris | Opéra National de Lyon, Opéra National de Lyon, Lyon, France |
| 1955-11-20 | カール・ベーム(Karl Böhm) | Concert Vienna State Opera Choir | Vienna State Opera, Vienna, Austria |
| 1956-06-23 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | Mozart Festival | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1956-06-24 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | Mozart Festival | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1956-07-26 | ブルーノ・ワルター(Bruno Walter) | Salzburg Festival | Small Festival Hall |
| 1959-02-12 | Ferdinand Großmann | 20th Anniversary of Death of Franz Schmidt | Franziskanerkirche |
| 1960-08-24 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan) | Salzburg Festival | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1962-06-19 | カール・シューリヒト(Carl Schuricht) | Vienna Festival Weeks | St. Stephen's Cathedral |
| 1965-09-27 | カール・ベーム(Karl Böhm) | Concert in Barcelona | Teatro Del Liceo (Barcelona, Spain) |
| 1965-10-16 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | Concert of the Society of the Friends of Music in Vienna | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1965-10-17 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | Concert of the Society of the Friends of Music in Vienna | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1971-10-13 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | Concert in Moscow | Conservatory Moscow |
| 1973-12-08 | ヨーゼフ・クリップス(Josef Krips) | Concert of the Society of the Friends of Music in Vienna | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1975-01-27 | カール・ベーム(Karl Böhm) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1980-01-30 | レオポルト・ハーガー(Leopold Hager) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1981-01-19 | Norbert Balatsch | Funeral Service Manfred Mautner Markhof | Kirche Neu-Simmering |
| 1981-08-26 | ジェイムズ・レヴァイン(James Levine) | Salzburg Festival | Salzburg Cathedral |
| 1986-06-01 | ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan) | Vienna Festival Weeks | Musikverein, Golden Hall, Vienna, Austria |
| 1989-07-23 | リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti) | Salzburg Festival/Requiem for Karajan | Salzburg Cathedral |
| 1989-11-12 | Kohtaroh Satoh | Concert in Tokyo | None |
| 1991-02-03 | ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1991-08-28 | カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini) | Salzburg Festival | Salzburg Cathedral |
| 1991-12-05 | ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti) | 200th Anniversary of the Death of Mozart | St. Stephen's Cathedral |
| 1991-12-08 | Michael Schonwandt | Mozart Requiem | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 1996-01-30 | カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 2006-12-05 | クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann) | Special Concert Mozart Requiem | Vienna State Opera, Vienna, Austria |
| 2010-01-30 | ヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nézet-Séguin) | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
| 2013-11-05 | レオポルト・ハーガー(Leopold Hager) | Concert in Rome | Basilica San Paolo fuori le Mura, Rome, Italy |
| 2019-02-02 | アンドレス・オロスコ=エストラーダ(Andrés Orozco-Estrada) | Mozart Week Salzburg | Haus für Mozart, Salzburg, Austria |
| 2023-02-04 | Thomas Guggeis | Mozart Week Salzburg | Large Festival Hall, Salzburg, Austria |
記念日と追悼が目立ちます。モーツァルトの生誕100年(1856年、リスト)、ウィーン市長ルエーガーの追悼(1910年)、没後150年の「モーツァルト週間」(1941年、フルトヴェングラー)、カラヤンのためのレクイエム(1989年、ムーティ)、没後200年の命日(1991年12月5日、ショルティ)などです。最も多く振ったのは、クリップス、ベーム、ワルターの5回ずつです。1931年2月2日の指揮者がアンドレス・オロスコ=エストラーダとなっているのは、アーカイブの記載の誤りと思われます(1977年生まれで、2019年の同じ演奏会シリーズにも名前があります)。
表A4 作曲家ごとの演奏回数(上位20人。演奏会×曲の延べ回数)
| 順位 | 作曲家 | 延べ回数 |
|---|---|---|
| 1 | モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart) | 4,088 |
| 2 | ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauß II.) | 3,798 |
| 3 | ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven) | 3,663 |
| 4 | リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss) | 1,738 |
| 5 | ブラームス(Johannes Brahms) | 1,707 |
| 6 | シューベルト(Franz Schubert) | 1,502 |
| 7 | ヨーゼフ・シュトラウス(Josef Strauß) | 1,182 |
| 8 | ブルックナー(Anton Bruckner) | 1,093 |
| 9 | ワーグナー(Richard Wagner) | 993 |
| 10 | ハイドン(Joseph Haydn) | 950 |
| 11 | マーラー(Gustav Mahler) | 820 |
| 12 | チャイコフスキー(Peter Iljitsch Tschaikowsky) | 622 |
| 13 | シューマン(Robert Schumann) | 607 |
| 14 | ドヴォルザーク(Antonín Dvořák) | 554 |
| 15 | メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn-Bartholdy) | 547 |
| 16 | J. S. バッハ(Johann Sebastian Bach) | 406 |
| 17 | ウェーバー(Carl Maria von Weber) | 403 |
| 18 | ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I.) | 388 |
| 19 | ストラヴィンスキー(Igor Strawinsky) | 373 |
| 20 | ベルリオーズ(Hector Berlioz) | 350 |
表A4-2 時代ごとの曲目(演奏会×曲の延べ。「同時代の作曲家」は、演奏した日に作曲家が15歳以上で存命だった曲の割合)
| 時代 | 期間 | 演奏会 | 同時代の作曲家の曲 | マーラー | メンデルスゾーン | 多く演奏した作曲家(延べに占める割合) |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 帝政期 | 1842.01.01〜1918.11.11 | 931 | 20.4% | 32 | 195 | ベートーヴェン 13.8%、モーツァルト 7.6%、シューベルト 6.1%、メンデルスゾーン 5.0%、シューマン 4.3%、ワーグナー 4.0%、ブラームス 3.8%、ウェーバー 2.6% |
| 戦間期 | 1918.11.12〜1938.03.12 | 1,362 | 17.0% | 80 | 68 | ベートーヴェン 13.8%、モーツァルト 12.1%、ワーグナー 7.2%、リヒャルト・シュトラウス 6.7%、ヨハン・シュトラウス2世 4.7%、シューベルト 4.6%、ブラームス 4.4%、ハイドン 2.8% |
| 戦中 | 1938.03.13〜1945.05.08 | 588 | 16.2% | 0 | 0 | ヨハン・シュトラウス2世 18.0%、モーツァルト 10.9%、ベートーヴェン 9.8%、リヒャルト・シュトラウス 7.4%、シューベルト 5.7%、ワーグナー 3.9%、ブラームス 3.8%、Franz Lehár 2.9% |
| 占領期 | 1945.05.09〜1955.07.26 | 762 | 10.8% | 26 | 21 | ベートーヴェン 13.8%、ヨハン・シュトラウス2世 12.6%、モーツァルト 9.0%、リヒャルト・シュトラウス 6.6%、ブラームス 6.0%、シューベルト 4.6%、ヨーゼフ・シュトラウス 3.4%、チャイコフスキー 3.2% |
| 冷戦期 | 1955.07.27〜1989.11.09 | 2,522 | 4.4% | 176 | 70 | モーツァルト 17.2%、ヨハン・シュトラウス2世 15.5%、ベートーヴェン 12.1%、ヨーゼフ・シュトラウス 6.3%、ブラームス 5.6%、リヒャルト・シュトラウス 4.6%、ブルックナー 3.5%、シューベルト 3.5% |
| 冷戦後 | 1989.11.10〜2009.12.31 | 2,118 | 2.0% | 216 | 99 | ヨハン・シュトラウス2世 15.3%、モーツァルト 11.8%、ベートーヴェン 5.9%、ヨーゼフ・シュトラウス 4.6%、リヒャルト・シュトラウス 4.5%、シューベルト 4.5%、ブラームス 4.3%、ブルックナー 3.4% |
| 最近 | 2010.01.01〜2026.12.31 | 2,266 | 3.9% | 290 | 94 | モーツァルト 7.8%、ベートーヴェン 7.6%、ヨハン・シュトラウス2世 7.4%、ブラームス 5.3%、リヒャルト・シュトラウス 5.0%、マーラー 4.5%、ブルックナー 3.8%、ドヴォルザーク 3.0% |
時代の区切りは、第一次世界大戦の休戦(1918年11月11日)、併合(1938年3月13日)、ヨーロッパでの終戦(1945年5月8日)、オーストリアの国家条約の発効(1955年7月27日)、ベルリンの壁の崩壊(1989年11月9日)です。ナチ期の7年間、マーラーとメンデルスゾーンは一度も演奏されず、代わりにヨハン・シュトラウス2世が延べの18.0%を占めました。演奏した日に作曲家が生きていた曲の割合は、帝政期の約2割から冷戦後の2%まで下がり続けています。作曲家の生没年はウィキデータで照会し、1946年以降に演奏された作曲家に限って調べたため、生没年の分かった曲は帝政期で78%、戦間期で92%、それ以降は98%を超えます。
表A5 演奏会を開いた国(59か国)
| 国 | 演奏会 |
|---|---|
| オーストリア | 8,037 |
| ドイツ | 550 |
| 日本 | 349 |
| 米国 | 303 |
| スイス | 218 |
| 英国 | 170 |
| フランス | 158 |
| イタリア | 126 |
| 場所の記載なし | 73 |
| スペイン | 65 |
| 中国 | 62 |
| アルゼンチン | 59 |
| ハンガリー | 58 |
| ベルギー | 56 |
| チェコ | 47 |
| ブラジル | 43 |
| オランダ | 43 |
| 韓国 | 37 |
| ギリシャ | 26 |
| デンマーク | 23 |
| ロシア | 23 |
| スロバキア | 20 |
| スウェーデン | 18 |
| エジプト | 17 |
| 台湾 | 17 |
| ルクセンブルク | 16 |
| カナダ | 15 |
| ポーランド | 13 |
| オーストラリア | 11 |
| メキシコ | 10 |
| ルーマニア | 9 |
| フィンランド | 9 |
| 香港 | 9 |
| ウルグアイ | 8 |
| ポルトガル | 8 |
| インド | 6 |
| スロベニア | 6 |
| アイルランド | 5 |
| ノルウェー | 5 |
| クロアチア | 4 |
| モナコ | 4 |
| ブルガリア | 4 |
| イスラエル | 4 |
| アラブ首長国連邦 | 3 |
| フィリピン | 2 |
| セルビア | 2 |
| シンガポール | 2 |
| トルコ | 2 |
| コロンビア | 2 |
| バチカン | 1 |
| リヒテンシュタイン | 1 |
| カタール | 1 |
| エストニア | 1 |
| アルメニア | 1 |
| ウクライナ | 1 |
| ボスニア・ヘルツェゴビナ | 1 |
| チリ | 1 |
| リトアニア | 1 |
| ラトビア | 1 |
| マルタ | 1 |
表A6 演奏会を開いた都市(上位30都市)
| 都市 | 国 | 演奏会 |
|---|---|---|
| ウィーン | オーストリア | 5,795 |
| ザルツブルク | オーストリア | 1,971 |
| 東京 | 日本 | 189 |
| ニューヨーク | 米国 | 162 |
| パリ | フランス | 129 |
| ロンドン | 英国 | 127 |
| ルツェルン | スイス | 125 |
| リンツ | オーストリア | 105 |
| ベルリン | ドイツ | 84 |
| ケルン | ドイツ | 73 |
| ミュンヘン | ドイツ | 67 |
| ブダペスト | ハンガリー | 58 |
| ブエノスアイレス | アルゼンチン | 58 |
| ハンブルク | ドイツ | 54 |
| フランクフルト | ドイツ | 39 |
| 大阪 | 日本 | 39 |
| アムステルダム | オランダ | 38 |
| グラーツ | オーストリア | 36 |
| ソウル | 韓国 | 33 |
| プラハ | チェコ | 32 |
| ブリュッセル | ベルギー | 32 |
| リオデジャネイロ | ブラジル | 30 |
| チューリヒ | スイス | 27 |
| ローマ | イタリア | 27 |
| ミラノ | イタリア | 25 |
| バルセロナ | スペイン | 25 |
| バーデン=バーデン | ドイツ | 23 |
| アテネ | ギリシャ | 23 |
| ブレゲンツ | オーストリア | 22 |
| エディンバラ | 英国 | 22 |
表A7 日本で演奏会を開いた都市(38都市・計347公演)
| 都市 | 演奏会 |
|---|---|
| 東京 | 189 |
| 大阪 | 39 |
| 名古屋 | 20 |
| 川崎 | 13 |
| 福岡 | 11 |
| 広島 | 8 |
| 札幌 | 8 |
| 新潟 | 5 |
| 京都 | 4 |
| 横浜 | 4 |
| 倉敷 | 3 |
| 浜松 | 3 |
| 津 | 3 |
| 西宮 | 3 |
| 宝塚 | 2 |
| 富山 | 2 |
| 熊本 | 2 |
| 仙台 | 2 |
| 金沢 | 2 |
| 鹿児島 | 2 |
| 岡山 | 2 |
| 福井 | 2 |
| 宮崎 | 2 |
| 姫路 | 2 |
| 八幡 | 1 |
| 松山 | 1 |
| 前橋 | 1 |
| 千葉 | 1 |
| 松戸 | 1 |
| 大津 | 1 |
| 大分 | 1 |
| 静岡 | 1 |
| 豊田 | 1 |
| 川口 | 1 |
| 郡山 | 1 |
| 久留米 | 1 |
| 長野 | 1 |
| 北九州 | 1 |
表A8 演奏会の多い会場(上位20)
| 会場 | 都市 | 演奏会 |
|---|---|---|
| Musikverein | Vienna | 4,627 |
| Large Festival Hall | Salzburg | 1,182 |
| Vienna Konzerthaus | Vienna | 423 |
| Vienna State Opera | Vienna | 223 |
| Small Festival Hall | Salzburg | 213 |
| Mozarteum | Salzburg | 173 |
| Felsenreitschule | Salzburg | 164 |
| Carnegie Hall | New York | 155 |
| Suntory Hall | Tokyo | 128 |
| Haus für Mozart | Salzburg | 116 |
| Ravag | Vienna | 113 |
| Vienna Court Opera | Vienna | 107 |
| Théatre des Champs-Elysées | Paris | 95 |
| Brucknerhaus | Linz | 83 |
| Hofburg Palace | Vienna | 78 |
| Lucerne Culture and Congress Centre | Lucerne | 70 |
| Cologne Philharmonie | Cologne | 66 |
| Teatro Colón | Buenos Aires | 57 |
| Philharmonie Berlin | Berlin | 54 |
| Kunsthaus Luzern | Lucerne | 51 |
指揮者の国籍は、公式アーカイブには載っていません。ここでは指揮者462人をウィキデータの人物の項目と照らし合わせ、そこに記載された国籍によりました。国籍が分かった指揮者が振った演奏会は、指揮者のいる演奏会の延べ10,347回のうち10,093回(97.5%)です。昔の国名は今の国にまとめています(オーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア、プロイセン王国やドイツ国はドイツ、など)。1938〜45年の併合期にオーストリア人へ記録された「ナチス・ドイツ」の国籍は採っていません。国籍が複数記載されている指揮者(51人)は、それぞれの国に1回ずつ入れているため、国ごとの合計は全体より多くなります。
表A9 指揮者の国籍ごとの演奏会(延べ。上位20か国)
| 国籍 | 指揮者 | 演奏会 | 〜1918 | 1919〜37 | 1938〜45 | 1946〜70 | 1971〜2000 | 2001〜 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| オーストリア | 108人 | 2,957 | 340 | 747 | 310 | 797 | 379 | 384 |
| ドイツ | 80人 | 2,577 | 215 | 423 | 380 | 742 | 409 | 408 |
| アメリカ合衆国 | 31人 | 1,367 | 0 | 18 | 0 | 200 | 771 | 378 |
| イタリア | 32人 | 1,184 | 5 | 70 | 9 | 67 | 602 | 431 |
| フランス | 24人 | 852 | 10 | 151 | 5 | 136 | 290 | 260 |
| ハンガリー | 21人 | 482 | 228 | 15 | 8 | 107 | 83 | 41 |
| イギリス | 24人 | 466 | 0 | 21 | 2 | 49 | 177 | 217 |
| ロシア | 18人 | 384 | 4 | 7 | 2 | 3 | 40 | 328 |
| インド | 1人 | 360 | 0 | 0 | 0 | 26 | 131 | 203 |
| ラトビア | 2人 | 298 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21 | 277 |
| イスラエル | 6人 | 184 | 0 | 11 | 0 | 10 | 30 | 133 |
| アルゼンチン | 3人 | 180 | 0 | 22 | 0 | 2 | 30 | 126 |
| 日本 | 3人 | 165 | 0 | 0 | 0 | 4 | 100 | 61 |
| スペイン | 7人 | 157 | 0 | 1 | 0 | 0 | 32 | 124 |
| パレスチナ国 | 1人 | 149 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30 | 119 |
| チェコ | 7人 | 141 | 2 | 1 | 0 | 78 | 17 | 43 |
| オランダ | 3人 | 133 | 3 | 3 | 15 | 0 | 68 | 44 |
| スイス | 16人 | 116 | 0 | 2 | 5 | 45 | 8 | 56 |
| ベネズエラ | 3人 | 92 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 91 |
| スウェーデン | 6人 | 69 | 0 | 6 | 0 | 0 | 1 | 62 |
表A9-2 指揮者の国籍ごとの演奏会(10年ごと・延べ。回数の多い上位20か国。全部の国籍はCSVで配布)
| 年代 | 演奏会 | 国籍が分かった指揮 | オーストリア | ドイツ | 米国 | イタリア | フランス | ハンガリー | 英国 | ロシア | インド | ラトビア | イスラエル | アルゼンチン | 日本 | スペイン | パレスチナ国 | チェコ | オランダ | スイス | ベネズエラ | スウェーデン | その他 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1840年代 | 26 | 13 | 0 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1850年代 | 13 | 7 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1860年代 | 108 | 94 | 3 | 91 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1870年代 | 160 | 120 | 8 | 63 | 0 | 1 | 2 | 44 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 1880年代 | 146 | 115 | 20 | 2 | 0 | 0 | 0 | 93 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1890年代 | 157 | 130 | 41 | 3 | 0 | 0 | 0 | 86 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 1900年代 | 162 | 121 | 100 | 19 | 0 | 3 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 |
| 1910年代 | 223 | 211 | 192 | 18 | 0 | 1 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1920年代 | 720 | 665 | 465 | 184 | 7 | 6 | 24 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 6 | 3 |
| 1930年代 | 724 | 710 | 289 | 318 | 11 | 72 | 132 | 7 | 22 | 9 | 0 | 0 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 5 |
| 1940年代 | 824 | 809 | 400 | 414 | 8 | 2 | 30 | 15 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 24 | 0 | 0 | 10 |
| 1950年代 | 780 | 771 | 291 | 373 | 68 | 23 | 58 | 22 | 8 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 68 | 0 | 20 | 0 | 0 | 73 |
| 1960年代 | 673 | 662 | 350 | 230 | 116 | 40 | 48 | 75 | 31 | 0 | 24 | 0 | 8 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 0 | 5 | 0 | 0 | 23 |
| 1970年代 | 721 | 699 | 254 | 237 | 132 | 163 | 20 | 20 | 10 | 5 | 20 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 7 | 15 | 2 | 0 | 0 | 13 |
| 1980年代 | 791 | 782 | 118 | 120 | 394 | 173 | 138 | 10 | 9 | 1 | 34 | 0 | 2 | 2 | 7 | 3 | 2 | 8 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1990年代 | 903 | 892 | 35 | 60 | 222 | 249 | 128 | 56 | 140 | 26 | 60 | 18 | 28 | 28 | 67 | 28 | 28 | 5 | 38 | 6 | 0 | 1 | 7 |
| 2000年代 | 1,203 | 1,163 | 145 | 121 | 181 | 186 | 119 | 7 | 117 | 144 | 115 | 50 | 43 | 43 | 80 | 46 | 43 | 3 | 30 | 9 | 3 | 0 | 21 |
| 2010年代 | 1,401 | 1,276 | 153 | 179 | 189 | 153 | 95 | 20 | 72 | 117 | 70 | 121 | 71 | 65 | 0 | 60 | 58 | 4 | 17 | 6 | 70 | 31 | 85 |
| 2020年代 | 1,033 | 853 | 92 | 126 | 39 | 112 | 50 | 14 | 46 | 75 | 37 | 109 | 19 | 18 | 0 | 18 | 18 | 36 | 0 | 41 | 18 | 31 | 48 |
1880〜90年代にハンガリーが多いのは、首席格のハンス・リヒターの国籍がハンガリーであるためです。1860年代のドイツは、オットー・デッソフによります。
表A9-3 国籍ごとの回数を作った指揮者(国籍が分かった全部の国。回数のある年代ごとに、多い順に3人)
国籍は延べで集計しているため、国籍が複数ある指揮者は複数の国に入ります。2000年代以降のロシアの伸びは、ワレリー・ゲルギエフと、ウィキデータで国籍がラトビアとロシアの両方に記録されているマリス・ヤンソンスによるところが大きく、ヤンソンスの分はラトビアにも入れています。米国のズービン・メータも、ウィキデータでは米国とインドの両方に記録されています。1960〜70年代のドイツの回数の大半は、オーストリアとドイツの両方に記録されているカール・ベームの分です。日本は、1990〜2000年代の小澤征爾がほぼすべてです。
回数の山の一部は、国立歌劇場の監督人事と重なります。ロリン・マゼールは1982〜84年に国立歌劇場総監督、クラウディオ・アバドは1986年に国立歌劇場音楽監督、小澤征爾は2002〜2010年に同じく音楽監督を務めました(ヒンク『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』p.54)。米国の1980年代(マゼール)、イタリアの1980〜90年代(アバド)、日本の2000年代(小澤)がこれにあたります。一方、2000年代以降のロシアの伸びと、1990年代にオーストリアの指揮者が35回まで減った理由は、この記事で使った資料からは分かりません。
1990年代にドイツ・オーストリア国籍の指揮者が減った理由を、指揮者の側の人数から確かめました。日本財務戦略センターが「指揮者は、どこを通って楽団の長になったのか」の調査で作った、世界の主要147楽団(オーケストラと歌劇場)の歴代の長の台帳から、ドイツ・オーストリア国籍の人を生年の10年ごとに集計し、その世代の独墺の指揮者がウィーン・フィルを振った回数と並べています。
表A9-4 独墺の指揮者の供給と、ウィーン・フィルでの起用(生年の10年ごと)
| 生年 | 主要楽団の長(全体) | うち独墺 | 独墺の割合 | ウィーン・フィルを振った回数(全体) | うち独墺 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1860年代 | 21人 | 9人 | 43% | 849 | 784 |
| 1870年代 | 46人 | 8人 | 17% | 357 | 285 |
| 1880年代 | 44人 | 12人 | 27% | 875 | 786 |
| 1890年代 | 68人 | 17人 | 25% | 1,129 | 973 |
| 1900年代 | 61人 | 13人 | 21% | 755 | 650 |
| 1910年代 | 64人 | 13人 | 20% | 482 | 60 |
| 1920年代 | 76人 | 19人 | 25% | 815 | 404 |
| 1930年代 | 67人 | 10人 | 15% | 1,366 | 113 |
| 1940年代 | 83人 | 6人 | 7% | 1,128 | 108 |
| 1950年代 | 61人 | 9人 | 15% | 731 | 282 |
| 1960年代 | 54人 | 8人 | 15% | 392 | 236 |
| 1970年代 | 50人 | 7人 | 14% | 529 | 7 |
| 1980年代 | 29人 | 3人 | 10% | 182 | 27 |

1940年代生まれでは、主要楽団の長になった独墺の指揮者が6人(7%)しかいません。1990年代に働き盛りを迎えるはずの世代で、ここは指揮者の側に人がいなかったと言えます。一方、1910年代生まれ(ルドルフ・ケンペ、クルト・ザンデルリンク、エーリヒ・ラインスドルフなど)と1930年代生まれ(マレク・ヤノフスキ、ゲルト・アルブレヒトなど)は、主要楽団の長がそれぞれ13人と10人いたのに、ウィーン・フィルはあまり呼んでいません(60回と113回)。1990年代の谷は、人がいなかった世代と、いたのに呼ばなかった世代が重なってできたものと読めます。

ある国の通貨が強い年に、その国籍の指揮者が多く呼ばれたり、その国での公演が増えたりしたのかを、1999〜2025年の1年ごとに確かめました。相場は欧州中央銀行の年平均(ルーブルは、欧州中央銀行が2022年に公表をやめたため、ロシア中央銀行の値)を使い、スピアマンの順位相関で検定しています。相場も回数も年を追って一方向に動くと、関係が無くても相関が出るため、前の年からの増減どうしでも検定しました。
表A9-5 通貨の相場(1ユーロあたり)と回数の相関(1999〜2025年・27年)
| 通貨 | 何の回数か | 合計 | 順位相関 | p値 | 前年差どうしの順位相関 | p値 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 円 | 指揮者の国籍 | 87 | -0.16 | 0.4255 | -0.143 | 0.4859 |
| 円 | その国での公演 | 176 | 0.069 | 0.7324 | -0.008 | 0.9679 |
| 米ドル | 指揮者の国籍 | 429 | 0.123 | 0.5423 | -0.028 | 0.8924 |
| 米ドル | その国での公演 | 144 | -0.031 | 0.8798 | -0.011 | 0.9579 |
| 英ポンド | 指揮者の国籍 | 250 | -0.448 | 0.0192 | -0.089 | 0.6647 |
| 英ポンド | その国での公演 | 52 | -0.469 | 0.0137 | -0.128 | 0.5341 |
| ルーブル | 指揮者の国籍 | 328 | -0.014 | 0.9445 | -0.015 | 0.9418 |
| ルーブル | その国での公演 | 15 | -0.132 | 0.51 | -0.055 | 0.7893 |
| 韓国ウォン | その国での公演 | 27 | 0.208 | 0.2969 | ― | ― |
| スイスフラン | 指揮者の国籍 | 52 | -0.2 | 0.3183 | 0.155 | 0.4496 |
| スイスフラン | その国での公演 | 78 | 0.548 | 0.0031 | 0.388 | 0.0502 |
| 人民元 | その国での公演 | 52 | -0.093 | 0.6528 | ― | ― |

円、米ドル、ルーブル、韓国ウォン、人民元では、相場と回数のあいだに有意な関係は見られませんでした。英ポンドは水準どうしでは有意(p<0.05)でしたが、前年からの増減どうしで見ると関係は消えます。この期間にポンドがほぼ一方向に安くなり続けたことによる見かけの相関と考えられます。スイスでの公演は増減どうしでも境目の値(p=0.05)でしたが、22通りの検定のうちの1つなので、偶然の可能性を外せません。ロシア人の旅行者がオーストリアで最も多かった2013年(到着50万人・宿泊200万泊。翌2014年は制裁とルーブル安で落ち込んだ=オーストリア議会の広報, 2017年3月22日。2014年はクリミア併合の年)とも、ロシア国籍の指揮者の回数ははっきりとは連動していません(2014年は0回、ルーブル安の続いた2016年は23回)。
通貨の強さで、楽団がどの国の指揮者を呼ぶか、どこへ演奏旅行に行くかが決まっていた、という形はデータからは見えません。
年ごとの相場ではなく、国の経済の大きさ(GDPが世界に占める割合)と、その国籍の指揮者が振った回数を、国をまたいで比べました。GDPは世界銀行の名目値(米ドル)を年代ごとに平均しています。旧ソ連や旧ユーゴスラビアなど、世界銀行の数字が無い国と時期は入っていません。
表A9-6 GDPが世界に占める割合と、その国籍の指揮者の回数の順位相関(10年ごと)
| 年代 | 1回以上振った国 | 順位相関 | p値 | オーストリアを除いた順位相関 | p値 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1960年代 | 11か国 | 0.327 | 0.3259 | 0.588 | 0.0739 |
| 1970年代 | 15か国 | 0.307 | 0.2657 | 0.485 | 0.0791 |
| 1980年代 | 13か国 | 0.479 | 0.098 | 0.543 | 0.0682 |
| 1990年代 | 23か国 | 0.544 | 0.0073 | 0.569 | 0.0057 |
| 2000年代 | 22か国 | 0.69 | 0.0004 | 0.738 | 0.0001 |
| 2010年代 | 25か国 | 0.457 | 0.0215 | 0.492 | 0.0146 |
| 2020年代 | 21か国 | 0.483 | 0.0267 | 0.55 | 0.012 |

1980年代までは、経済の大きさと指揮者の回数のあいだに有意な関係はありません。ドイツ・オーストリアの指揮者がほとんどを占めていた時代で、国の経済の大きさとは関係なく回っていました。1990年代からは、経済の大きい国の指揮者ほど多く振る形がはっきりし(順位相関0.46〜0.69、p<0.05)、地元のオーストリアを除くとさらに強まります。ただし、これは因果関係を示すものではありません。経済の大きい国ほど楽団や音楽学校が多く、指揮者もたくさん育つため、その量の差が表れている可能性があります。一方、世界のGDPの2%以上を占めながら、その国籍の指揮者が一度も振っていない国もあります(1970年代・2000年代とも、ブラジル・カナダ・中国)。中国は2000年代に世界のGDPの5.6%を占めていました。楽団は1973年4月に北京で公演しており(クラウディオ・アバドとヴィリー・ボスコフスキーの指揮)、中国へ行かなかったわけではありません。
公演先の国についても同じように比べました(オーストリアを除き、その年代に1回以上公演した国について)。
表A9-7 GDPが世界に占める割合と、その国で開いた演奏会の数の順位相関(10年ごと)
| 年代 | 公演した国 | 演奏会 | 順位相関 | p値 |
|---|---|---|---|---|
| 1960年代 | 18か国 | 124 | 0.489 | 0.0397 |
| 1970年代 | 16か国 | 181 | 0.6 | 0.0141 |
| 1980年代 | 23か国 | 214 | 0.611 | 0.0019 |
| 1990年代 | 20か国 | 298 | 0.84 | 0.0 |
| 2000年代 | 31か国 | 377 | 0.752 | 0.0 |
| 2010年代 | 44か国 | 440 | 0.695 | 0.0 |
| 2020年代 | 24か国 | 277 | 0.73 | 0.0001 |

公演先は1960年代から一貫して、経済の大きい国ほど多くなっています(順位相関0.49〜0.84、どの年代もp<0.05)。年ごとの相場の上下には反応しない一方で、経済の大きい国へは長い目で見て多く行っている、という形です。指揮者の国籍が経済の大きさと連動し始めたのが1990年代だったのに対し、公演先は1960年代から連動していました。
アーカイブの出演者欄には、誰がどの曲を弾いたかの対応が書かれていません。そこで、協奏曲が1つの楽器のものだけで、指揮者・楽団・合唱を除いた出演者が1人だけの演奏会に限って、その人をその楽器の独奏者と判定しました。判定できなかった演奏会は数に入っていません。アーカイブの指揮者欄と出演者欄が入れ替わっている1件(2000年8月20日)は除きました。
表A10 協奏曲を演奏した演奏会と、独奏者を判定できた数
| 楽器 | 協奏曲のある演奏会 | 独奏者を判定できた |
|---|---|---|
| ピアノ | 1148 | 828 |
| ヴァイオリン | 737 | 452 |
| チェロ | 184 | 86 |
| フルート | 90 | 51 |
| ヴィオラ | 80 | 8 |
| クラリネット | 74 | 48 |
| ハープ | 43 | 12 |
| トランペット | 26 | 16 |
| ファゴット | 21 | 9 |
| ホルン | 18 | 10 |
| オーボエ | 13 | 5 |
| トロンボーン | 11 | 9 |
| コントラバス | 8 | 5 |
| オルガン | 6 | 6 |
| チェンバロ | 1 | 0 |
表A11 楽器ごとの独奏者(ピアノとヴァイオリンは上位15人、チェロは上位10人、ほかは全員)
| 楽器 | 独奏者 | 演奏会 | 初回〜最後 |
|---|---|---|---|
| ピアノ | イェフィム・ブロンフマン(Yefim Bronfman) | 62 | 2002〜2025 |
| ピアノ | ラン・ラン(Lang Lang) | 55 | 2005〜2026 |
| ピアノ | ルドルフ・ブッフビンダー(Rudolf Buchbinder) | 51 | 1981〜2022 |
| ピアノ | マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini) | 49 | 1971〜2020 |
| ピアノ | アルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel) | 44 | 1960〜2008 |
| ピアノ | ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus) | 34 | 1927〜1968 |
| ピアノ | イゴール・レヴィット(Igor Levit) | 22 | 2019〜2025 |
| ピアノ | フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda) | 21 | 1953〜1981 |
| ピアノ | ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim) | 20 | 1965〜2021 |
| ピアノ | マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich) | 19 | 2017〜2025 |
| ピアノ | デニス・マツーエフ(Denis Matsuev) | 18 | 2018〜2022 |
| ピアノ | クリスチャン・ツィメルマン(Krystian Zimerman) | 18 | 1983〜1989 |
| ピアノ | ダニール・トリフォノフ(Daniil Trifonov) | 15 | 2012〜2024 |
| ピアノ | マレイ・ペライア(Murray Perahia) | 14 | 1989〜2012 |
| ピアノ | シュテファン・ヴラダー(Stefan Vladar) | 12 | 1991〜2004 |
| ヴァイオリン | ヴォルフガング・シュナイダーハン(Wolfgang Schneiderhan) | 39 | 1940〜1973 |
| ヴァイオリン | ギドン・クレーメル(Gidon Kremer) | 27 | 1976〜2007 |
| ヴァイオリン | ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky) | 21 | 1941〜1965 |
| ヴァイオリン | レオニダス・カヴァコス(Leonidas Kavakos) | 19 | 2014〜2023 |
| ヴァイオリン | ピンカス・ズーカーマン(Pinchas Zukerman) | 19 | 2013〜2026 |
| ヴァイオリン | アンネ=ゾフィー・ムター(Anne-Sophie Mutter) | 18 | 1981〜2022 |
| ヴァイオリン | フランク・ペーター・ツィンマーマン(Frank Peter Zimmermann) | 15 | 1983〜2023 |
| ヴァイオリン | ブロニスワフ・フーベルマン(Bronislaw Huberman) | 13 | 1899〜1936 |
| ヴァイオリン | ユーディ・メニューイン(Lord Yehudi Menuhin) | 13 | 1947〜1958 |
| ヴァイオリン | ニコライ・ズナイダー(Nikolaj Znaider) | 13 | 2006〜2015 |
| ヴァイオリン | アルノルト・ロゼー(Arnold Rosé) | 10 | 1881〜1918 |
| ヴァイオリン | ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn) | 10 | 2013〜2026 |
| ヴァイオリン | 五嶋みどり(Midori) | 10 | 1996〜2024 |
| ヴァイオリン | マキシム・ヴェンゲーロフ(Maxim Vengerov) | 9 | 1993〜2004 |
| ヴァイオリン | クリスティアン・テツラフ(Christian Tetzlaff) | 8 | 1997〜2015 |
| チェロ | ゴーティエ・カプソン(Gautier Capuçon) | 15 | 2015〜2024 |
| チェロ | フリードリヒ・ブクスバウム(Friedrich Buxbaum) | 12 | 1919〜1922 |
| チェロ | タマーシュ・ヴァルガ(Tamás Varga) | 7 | 2017〜2017 |
| チェロ | ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Mstislaw Rostropowitsch) | 5 | 1997〜2005 |
| チェロ | ソル・ガベッタ(Sol Gabetta) | 5 | 2004〜2024 |
| チェロ | クレメンス・ハーゲン(Clemens Hagen) | 4 | 2009〜2009 |
| チェロ | ミッシャ・マイスキー(Mischa Maisky) | 4 | 1985〜1985 |
| チェロ | ヨーヨー・マ(Yo Yo Ma) | 4 | 1982〜2010 |
| チェロ | ハインリヒ・シフ(Heinrich Schiff) | 3 | 1988〜1988 |
| チェロ | エマヌエル・フォイアマン(Emanuel Feuermann) | 2 | 1932〜1932 |
| フルート | ヴォルフガング・シュルツ(Wolfgang Schulz) | 29 | 1974〜2006 |
| フルート | カール=ハインツ・シュッツ(Karl-Heinz Schuetz) | 6 | 2018〜2018 |
| フルート | ディーター・フルーリー(Dieter Flury) | 5 | 2001〜2012 |
| フルート | ヴェルナー・トリップ(Werner Tripp) | 5 | 1962〜1973 |
| フルート | アリ・ファン・レーウェン(Ary van Leeuwen) | 2 | 1919〜1919 |
| フルート | ヨーゼフ・ニーダーマイアー(Josef Niedermayr) | 2 | 1939〜1941 |
| フルート | カールハインツ・ツェラー(Karlheinz Zöller) | 1 | 1972〜1972 |
| フルート | ヴァルター・アウアー(Walter Auer) | 1 | 2018〜2018 |
| ヴィオラ | アントワン・タメスティ(Antoine Tamestit) | 4 | 2008〜2021 |
| ヴィオラ | トビアス・リー(Tobias Lea) | 3 | 2008〜2008 |
| ヴィオラ | ユーリ・バシュメット(Yuri Bashmet) | 1 | 2000〜2000 |
| クラリネット | ペーター・シュミードル(Peter Schmidl) | 17 | 1986〜2005 |
| クラリネット | エルンスト・オッテンザマー(Ernst Ottensamer) | 11 | 1990〜2000 |
| クラリネット | レオポルト・ウラッハ(Leopold Wlach) | 9 | 1938〜1951 |
| クラリネット | アルフレート・プリンツ(Alfred Prinz) | 7 | 1963〜1975 |
| クラリネット | ダニエル・オッテンザマー(Daniel Ottensamer) | 2 | 2014〜2014 |
| クラリネット | イェルク・ヴィトマン(Jörg Widmann) | 1 | 2018〜2018 |
| クラリネット | ヴィクトル・ポラチェク(Viktor Polatschek) | 1 | 1932〜1932 |
| ハープ | グザヴィエ・ドゥ・メストレ(Xavier de Maistre) | 8 | 2002〜2009 |
| ハープ | アンネリーン・ルナールツ(Anneleen Lenaerts) | 4 | 2022〜2022 |
| トランペット | ハンス・ペーター・シュー(Hans Peter Schuh) | 8 | 2003〜2012 |
| トランペット | ホーカン・ハーデンベルガー(Håkan Hardenberger) | 4 | 2022〜2022 |
| トランペット | ヨーゼフ・ポムベルガー(Josef Pomberger) | 2 | 1982〜1982 |
| トランペット | ヘルムート・ヴォービッシュ(Helmut Wobisch) | 1 | 1952〜1952 |
| トランペット | モーリス・アンドレ(Maurice André) | 1 | 1976〜1976 |
| ファゴット | シュチェパーン・トゥルノフスキー(Stepán Turnovský) | 4 | 2006〜2006 |
| ファゴット | カール・エールベルガー(Karl Öhlberger) | 3 | 1956〜1956 |
| ファゴット | ミヒャエル・ヴェルバ(Michael Werba) | 2 | 1991〜1991 |
| ホルン | ゴットフリート・フライベルク(Gottfried Freiberg) | 6 | 1943〜1957 |
| ホルン | カール・シュティーグラー(Karl Stiegler) | 3 | 1921〜1926 |
| ホルン | マリー=ルイーゼ・ノイネッカー(Marie-luise Neunecker) | 1 | 1989〜1989 |
| オーボエ | ハンス・カメシュ(Hans Kamesch) | 4 | 1941〜1948 |
| オーボエ | グスタフ・ヴァルター(Gustav Walter) | 1 | 1862〜1862 |
| トロンボーン | イアン・バウスフィールド(Ian Bousfield) | 5 | 2008〜2008 |
| トロンボーン | ディートマー・キューブルベック(Dietmar Kueblboeck) | 4 | 2010〜2010 |
| コントラバス | エデン・ラーツ(Ödön Rácz) | 3 | 2014〜2014 |
| コントラバス | ルートヴィヒ・シュトライヒャー(Ludwig Streicher) | 2 | 1971〜1971 |
| オルガン | ジリアン・ウィア(Gillian Weir Dame) | 3 | 2011〜2011 |
| オルガン | アントン・ハイラー(Anton Heiller) | 2 | 1963〜1963 |
| オルガン | クルト・フライターク(Kurt Freitag) | 1 | 1942〜1942 |
管楽器の協奏曲では、独奏者のほとんどがウィーン・フィルの首席奏者でした(ホルンのカール・シュティーグラー、オーボエのハンス・カメシュ、フルートのヴォルフガング・シュルツ、クラリネットのペーター・シュミードル、トランペットのヘルムート・ヴォービッシュなど)。
〔註1〕サモヒルの師について。ヒンクの語り下ろしでは、サモヒルとビーレクの師はシュトヴェルトカです(『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』p.207)。野村三郎『キュッヒルの音楽手帳』の地の文は、サモヒルを「ロゼー門下」としています(同書 p.18)。どちらも弟子の側の証言で、両方に習った可能性もあります。この記事では両説を並べました。
〔註2〕戦後の処分の人数について。シュトラッサーの回想録は13人が年金退職させられたと書き、楽団の公式サイトの歴史のページは、4人が即時解雇、6人が年金退職(うち2人は後に復帰)としています。数え方の範囲が違う可能性があります。
〔註3〕キュッヒルの「40年前」について。キュッヒルは1970年の試験に合格し、1971年にコンサートマスターに就いています。対談の時期を野村三郎の本からは特定できていないため、「1970年前後」としました。
〔註4〕1996年2月13日の西ドイツ放送の番組での発言の話し手について。番組の文字起こしと英訳(ダニエル・トレイスターのページ)では第2ヴァイオリン奏者、ウィリアム・オズボーンの1999年の文章では首席フルート奏者ディーター・フルーリーとされています。オズボーンの文章では、この発言は「魂は…性別からも切り離せない」と続きます。
〔註5〕ドヴォルザークの交響曲第6番について。作曲家の公式サイトの作品解説は、ウィーン・フィルがこの曲を初めて演奏したのは1942年だとしています。楽団の公式アーカイブを見ると、1942年のドヴォルザークは11月のフルトヴェングラーの《新世界より》だけで、第6番が演奏会の曲目に出てくるのは2022年6月(アンドリス・ネルソンス指揮)が最初です。アーカイブは演奏会の記録で、放送のための演奏などは入っていない可能性があります。
〔註6〕『舞台裏の神々』の英国系の指揮者について。本は名前を挙げていません。ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振った指揮者は、付録の表A2-3に年ごとに載せています。曲目つきの一覧も、CSVで配布しています。
楽団長だったオットー・シュトラッサーの回想録『栄光のウィーン・フィル』、元コンサートマスターのヴェルナー・ヒンクの語り下ろし『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』、野村三郎『ウィーン・フィル コンサートマスター、キュッヒルの音楽手帳』、ルーペルト・シェトレ『舞台裏の神々』、ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』と自伝『レコードはまっすぐに』、ウォルター・レッグ『レコードうら・おもて』、ポール・ホフマン『ウィーン 栄光・黄昏・亡命』、ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』、ONTOMO MOOK『至高の指揮者たち』を読み込み、同じ出来事や人物についての記述を突き合わせました。引用した箇所は、それぞれの本の該当頁で確かめています。
あわせて、ウィーン・フィルが歴史家に委嘱した研究の報告(公式サイトで公開)、フェビアン・ペステルの論文(Central European History, 2025)、サリー・ドルーの博士論文(シェフィールド大学・2018年。ウィーン・フィル資料室の書簡を引く)、ダニエル・リーチ=ウィルキンソンの録音研究、オーストリア音楽事典の項目を使いました。孫引きになる箇所は、本文で引用元を示しています。
ウィーン・フィルの公式コンサート・アーカイブの一覧(2026年10月2日に取得)から、演奏会ごとの日付・会場・指揮者・曲を読み取りました。曲の一覧に入っている休憩の行は除きました。会場の欄に都市と国が無い演奏会(全体の約17%)は、会場欄の括弧書き、演奏会の題(「Concert in Tokyo」「Salzburg Festival」など)、会場名の順で場所を決め、決められなかった73公演は「場所の記載なし」としました。国名は英国(England と United Kingdom)などの表記をそろえています。曲は「作曲家と曲名」の組で集計しており、同じ曲が別の表記で載っている場合は別の曲として扱っています。上位の曲では表記の分かれがないことを確かめました。
アーカイブには、楽員による室内楽の演奏会など、指揮者のいない演奏会(421公演)も含まれます。日付が明らかに誤っていると思われる行(例:2020年代に活躍する指揮者が1931年の演奏会に載っている行)も、アーカイブの記載のまま集計しました。
指揮者・作曲家・曲名・地名の日本語の表記は、日本財務戦略センターが付けたものです。日本で広く使われている表記に寄せましたが、異なる表記が使われることもあります。表記を付けていないものは原綴のまま載せています。配布するCSVには、原綴と日本語の表記を並べています。
本稿は、公刊された回想録・聞き取り・研究と、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が公開している資料をもとに、日本財務戦略センターが整理・集計したものです。特定の楽員・指揮者・団体を評価するものではありません。引用は、それぞれの資料の該当箇所を確かめたうえで短く載せています。
APPENDIXの回数は、ウィーン・フィルの公式コンサート・アーカイブの記載をそのまままとめたもので、記載の誤りや抜けがあればそのまま反映されます。
読み取りの誤りや、事実の誤りにお気づきの点がありましたら、お問い合わせよりご連絡ください。速やかに確認のうえ対応いたします。